メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

タグ:鎮痛剤



病室に着くと、
母の友人に付き添いを頼んでいたので、
私が到着するまでの間、
看護師や医師に対して
しっかりと対応してくれていたのでとても助かった。


心電図モニターや呼吸器モニターは
思ったより安定していた。


血圧以外は・・・の話だが。



どうやら、大量に便が出ていて
便の中に出血が混じっており、
血圧が低く悪条件が重なってしまい、
下手に母の体を動かせば
それだけで体力を消耗すると判断し、
危険な状態になるおそれがあったので父へ電話をしたのだという。


酸素濃度は100%をキープ中。
脈拍は80台。


とりあえず母の容態が落ち着くまで、
衛生面で不安はあるものの、総合的に判断し、
便の処理については一度休憩せざるを得なかった。


午後、看護師がきれいにおシモの後処理をしてくれた。
母の体の向きを変えたり痰吸引をしてもらったが
特に容態の悪化は見られずだったので、
ひとまず安堵した。。。


大量の便、そして血液が混じっていた件だが、
勝手な想像だが、昨日の電位治療器のおかげで、
体の中に溜まっていた悪いモノ(悪血含む)が
出たのかなぁ、と都合よく考えた(笑)
この考えに、母の友人も同意してくれた。


母のピンチには必ず私が駆け付ける。
すると、少しずつではあるが回復していく。
本当に、本当に説明がつかないほど不思議な現象だ。


母の友人に私が到着するまでの間、
付き添いを頼んでいたおかげで、
母も心強かったのでは、と思う。


誰もいない環境だったなら、
母は転院して次の日には旅立っていたかもしれない。


こんな状態になっても尚、母は医師のド肝を抜いた(笑)


『素晴らしい生命力です。転院から現在に至るまで、医学的にはお母様の体は限界のはずなんです。失礼な言い方になってしまいますが、ここまで持つのは信じられません。』


今日の担当看護師に、
昨日から再開した『特別な治療』の概要を簡単に説明し、
使用許可をいただいた。


血圧が低いのが心配だったので、
今回も5分間のみ行った。


母は、静かに目を閉じた。。。


夕方、商談を無事に終えた父が交代に来てくれた。
数値を見て、目に涙を浮かべながら喜んでいた。
今夜は父が泊まる、と申し出てくれたが
なんだか疲れてそうにみえたので
『私が代わるよ』と申し出た。
少しでも休んでもらいたかった。
私のほうが若いんだし(笑)
冗談交じりに笑いながら言うと、父は観念して甘えてくれた。


私は仕事を丸投げで会社を飛び出してきたため
後処理をするべく会社に戻った。
会社についてすぐ、父から連絡が入った。


父『メソメソが病室を出てすぐ、2回痙攣が起きた・・・先生の判断で、鎮痛剤(即効性の強めの薬)を入れてもらうことにした』
私『・・・うん、わかった。異論はないよ。おかーさんをなるべくラクにさせてあげて』
父『・・・・・ほんとに、すまん・・・・・』
私『・・・やっぱ、私が離れたらあかんなぁ(笑)ソッコーで仕事終わらせて、風呂入って食事済ませてそっちいくね!おかーさんに待っててって伝えて!』
父『わかった。お前が娘でよかったよ。気を付けて来いよ』
私『うん』



夜8時まで仕事をし、家で簡単に食事を済ませ
風呂にはゆーーーーっくり入って、
少し仮眠をとったあと、弟と交代した。


酸素濃度は、昼の間は常に100%をキープしていたのに。
夜11時ごろは、70後半まで下がっていた。


私『・・・・』


看護師を呼び、酸素濃度の圧?を
60%→70%まで上げてもらうよう頼んだ。


深夜0時現在。
心拍数50後半、血圧47/24、酸素濃度80後半まで引き上げた。
今のところ、痙攣らしき行動は見られない。


このまま・・・穏やかに時が過ぎるのを祈りながら
夜明けを待つ。

・・・こんな時まで病室へパソコンを持ち込み、
ブログを書くなんて不謹慎だなと自分で呆れる(笑)



page12へつづく。





9月14日-18日の期間。


台風18号の影響がかなり不安だったが、
予定通り無事に、奄美の親戚たちは母の元へ到着できた。


朝の9時から夜の9時まで、奄美の姐さんたちが
ずっと付き添っていてくれたおかげで、
日中は仕事に集中することが出来た。


夜は、父or弟or私のいずれかが交代で寝泊まりし、
いよいよ始まる会社イベント『地域合同商談会』の準備にいそしんだ。


その間の母の容態は、
血圧に少々の変化はあるものの比較的安定していた。


尿が出ないため、全身がむくみ始め
目をほとんどあけられなくなった。


時折、うっすらと開けることはある。
しかし、見えていないような感じだ。
呼びかけても、応答はほとんどない。


体が固まらないように、と筋を伸ばすなどの
簡単なリハビリが始まった。


以前のように、
ベッドサイドに座ったり立ったりすることはできなくなった。


痰吸引をお願いするが、
体を動かすことが殆どなくなったので
気管から吸引しても上がってこなくなった。
引いても、なかなか取れなかった。


『ただ、苦しくなるだけなので・・・・』


看護師にそう言われると・・・・
ナースコールを押す頻度は、日に日に減っていった。


夜、寝泊まり時。


看護師のように痰吸引はしてあげることはできないが、
あたたかいホットタオルで体を拭いてあげたり、
体の向きを変えたり、
母の首の後ろに手を差し込み、後頭部や首、肩など
マッサージをなるべくしてあげた。


少しでも、体にたまっている悪いモノが出てきますように。


前病院でやっていた特別な治療は、
この病院では許可が下りなかったので・・・
やってあげることが出来なかった。


可能なら、やってあげたい。
でも、個室に精密機械を置いてある以上・・・
悪影響が出る恐れがあるので(心電図の乱れ等)
いくら前病院では許可がおりていた、と説明しても
病院で入院し病院の方針である以上、あきらめざるを得なかった。


ここまで来たら・・・特別な治療など、気休めにしかならない。
私に出来る事や母自身が出来ることは、徐々に減っていった。


『オシッコが出ないので、管を入れますか?』


医師に問われた。
管を入れたからと言って尿が出るものでもなく、
体のむくみが改善する、というものでもないらしい。


病院は治療する場ではあるので強制はないものの、
とりあえず提案してくれたようだった。
決定権は、私たち家族にある。


『本人が苦しいだけなので、入れないでください』


そう答えると、医師は心よく承諾してくれた。





9月18日早朝。
奄美の親戚たちはそれぞれの家に帰っていった。


私は9月17日の夜から泊まっていたので
父が翌朝交代で来てくれたから、
家に帰って気のすむまでぐっすり眠った。


母の血圧は、いまだ低いままだったが・・・・
鎮痛剤を入れてもらったおかげで、
呼吸回数は安定し、不整脈が気になるものの
呼吸器の異常アラームがなる頻度は減った。




page9へつづく。

















父『・・・それは、まだ使わんとこ。』
私『でも・・・すぐにどうなるっていうものでもないんやで?』
父『呼吸抑制がかかるんやろ?そんな変な薬、使う必要ない』
私『変な薬って・・・おかーさんをこれ以上頑張らせる気??』
父『そうや。姉さんたちが来るまで、頑張ってもらわなあかん』
私『・・・・気持ちは、わかるけど・・・』
父『せめて、生きてるうちに会わせてやりたい。明日には来るんや。それまで、何とかもたせたい・・・酷なのはわかってる。お前が夜通し看病してて、つらいのもようわかる。わしも辛い・・・でも、みんなで辛さを乗り越えたい。これはわしのワガママや』 




私は、夜通し苦しそうな母の様子を見かねて、
『鎮痛剤』を投与したほうがいいのではないかと感じ、
看護師に相談してみた。


確かに、苦痛を伴う苦しみなら使ったほうが本人もラクだ。
しかし、呼吸器をつけている以上は、下手を打てば呼吸抑制がかかり
血圧が低いまま投与すれば、そのまま目が覚めない、なんてこともあり得るらしい。


看護師も医師も、今こそ使うべき時だと言う。
これ以上頑張る必要はないと。
苦痛をやわらげ、しっかり睡眠をとらせ、
穏やかに、眠るように旅立ちの準備をゆっくりと始めるのだ。
私も、同意見だった。


でも、父と弟は、これには反対意見だった。


『姉さんたちが来る連休まで・・・投与は待ってください』


私は、父に従った。
どっちが正しいかなんてわからん。
母の気持ちを考えれば・・・・
考えたって、わからない。


姉たちに会いたい、と願っているようにも見えるし
・・・・そろそろ、ゆっくりしたい、ともとれる。


おかーさん、頑張らせてごめん。
でも、離れたくないよ。
遠くに行かないでほしいよ。
くやしい・・・・
数か月前まであんなに元気に入院生活を送っていたのに。
こんなになるまで母を苦しめた、病気が憎い。



鎮痛剤を投与することはないまま、
いよいよ姉たちが到着する日となった。



page8へつづく。




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