-お通夜前夜-

金曜の夜、
奄美の親戚たちが家に集まって来てくれた。


その他、地元の親戚や近所の方たち、
会社で大変お世話になった人たち、
地元の特に親しい友人たちが、
自宅で静かに寝ている母の元へ、
葬儀場に入る前にご挨拶に来てくれた。


みんな口を揃えて言う。

『あんなに元気だったのに』
『未だに信じられない』
『とても綺麗なお顔ですね』って。


母は、目を開けることはないけれど
来てくれた人たちひとりひとりに
丁寧に御礼を言っているかのよう。


入院前、入院中、退院後。
沢山の人たちに親切にしてきた母。


めぐりめぐって、
母が与えた『まごころ』は、
こうしてわすられる事なくかえってきている。


悲しみの涙や、お別れの言葉を沢山いただいた。


-お通夜-
葬儀屋さんが到着、棺を運び込み
母の服(装束)を着替えさせ、メイクを施してくれた。


最期の親孝行、と言う事で、
片足ずつ、草履をはかせてあげた。


身に纏うものは、これですべて揃った。
あとは、腰元にお弁当を持たせ、
三途の川を渡るときに必要なものである『六文銭』を持たせた。


生前、良く使っていた母の私物を棺に入れ込んだ。
母の服、母のメガネ、仕事で使っていたエプロン。
鏡、うちわ、千羽鶴、オセロ、奄美のかるた。
そして、、、うなぎのクッションも。
どれもこれも、母の大事なものたち。
天国へ旅立つとき、一緒に持って行ってもらうのだ。





天候がやや心配だったが、なんとか雨は免れた。

弔問客は200人を超え、弔電は100通以上にものぼった。
場内にはたくさんの供花が所狭しと添えられている。

受け付けは、奄美の従妹たちに頼んだ。
喪主である父を筆頭に、弟と旦那、叔父が入口にて迎え入れ、
母の血のつながった姐さんたち、そして私、叔母とともに
ご焼香台の両側へ着席し、それぞれ弔問客へご挨拶をした。


お通夜は滞りなく済んだ。
その夜、親戚一同は母の元へ集まり、
夜通し母の死を悼んだ。


告別式があるのだから、
睡眠不足で体調を崩すわけにもいかなかったが・・・
死を受け入れられない家族にとって、
安眠できるはずもなく、夜明けを迎えた。


母は、家族が睡眠時間を削る事を望んでいなかったに違いない。
わかってはいるけど、どうしても気持ちの整理がつかない。
ごめんね、おかーさん。


-告別式-
母の新しい旅立ちにふさわしい、澄み切った秋晴れの日。

母の同級生たちが、
遠路はるばる最後の別れの為に来てくれた。

できれば生きているうちに会いたかった、同級生たち。幼馴染たち。

去年の60歳、還暦の年に奄美へ帰った母。
ついこの間の事のように、
同級生たちは母との思い出話を沢山話してくれた。

葬儀屋さんの協力の甲斐あって、
告別式が始まる直前まで棺を開けていただき、
参列していただくすべての人が、
かわるがわる母に別れの挨拶をしてくれた。


ピンク色の棺。
ピンクの縁取りの、遺影。

遺影の写真は、どうしても笑っている顔が良かった。
いつも朗らかに笑っていた。それが母らしいからだ。

※不謹慎なのは百も承知ですが、
このブログを読んでくださっているすべての方へ
母の病気の行く末を見守ってくださった御礼と
お披露目の意味も込めて、モザイク無しで載せさせていただきます。
どうか御許し下さい。※

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この写真は、2016年4月に神戸の親戚の家で撮影されたもの。
この頃は病気の陰など微塵も感じられなかった。
母の笑顔から察するに、とても楽しい話をしていたに違いない。
造り笑顔などではなく、自然な笑顔である。


その遺影の周りには、
沢山の花々がハートマーク模様を施すかのように飾られていた。
母の、最期の精一杯のこころを込めて。


色については、葬儀屋さんからの提案だった。


基本的には白で統一するのが主流だが
青・ピンク・白の3色から選べる、との事。


父は、優しい色合いのピンクを選んだ。
私も弟も、異論はなかった。


告別式も滞りなく終了。
火葬場にて、骨上げを済ませ、初七日も済ませた。


※初七日とは※

故人が三途の川のほとりに到着する日とされており、
故人の生前の行いによって三途の川の渡り方が分けられると考えられている。


生前に良い行いをしてきた者は橋を用意され、
少し悪い行いをした者は浅瀬を渡り、
悪い行いをしたものは深みを渡らされると考えられている。

初七日法要は、故人が無事に三途の川を渡るために大切な供養のこと。





母は間違いなく、
橋を用意されているだろうな!ヾ(≧▽≦)ノ



こうして、母の死から旅立つ日までの4日間は、怒涛のように過ぎて行った。


page16へつづく。