メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

タグ:告別式


-お通夜前夜-

金曜の夜、
奄美の親戚たちが家に集まって来てくれた。


その他、地元の親戚や近所の方たち、
会社で大変お世話になった人たち、
地元の特に親しい友人たちが、
自宅で静かに寝ている母の元へ、
葬儀場に入る前にご挨拶に来てくれた。


みんな口を揃えて言う。

『あんなに元気だったのに』
『未だに信じられない』
『とても綺麗なお顔ですね』って。


母は、目を開けることはないけれど
来てくれた人たちひとりひとりに
丁寧に御礼を言っているかのよう。


入院前、入院中、退院後。
沢山の人たちに親切にしてきた母。


めぐりめぐって、
母が与えた『まごころ』は、
こうしてわすられる事なくかえってきている。


悲しみの涙や、お別れの言葉を沢山いただいた。


-お通夜-
葬儀屋さんが到着、棺を運び込み
母の服(装束)を着替えさせ、メイクを施してくれた。


最期の親孝行、と言う事で、
片足ずつ、草履をはかせてあげた。


身に纏うものは、これですべて揃った。
あとは、腰元にお弁当を持たせ、
三途の川を渡るときに必要なものである『六文銭』を持たせた。


生前、良く使っていた母の私物を棺に入れ込んだ。
母の服、母のメガネ、仕事で使っていたエプロン。
鏡、うちわ、千羽鶴、オセロ、奄美のかるた。
そして、、、うなぎのクッションも。
どれもこれも、母の大事なものたち。
天国へ旅立つとき、一緒に持って行ってもらうのだ。





天候がやや心配だったが、なんとか雨は免れた。

弔問客は200人を超え、弔電は100通以上にものぼった。
場内にはたくさんの供花が所狭しと添えられている。

受け付けは、奄美の従妹たちに頼んだ。
喪主である父を筆頭に、弟と旦那、叔父が入口にて迎え入れ、
母の血のつながった姐さんたち、そして私、叔母とともに
ご焼香台の両側へ着席し、それぞれ弔問客へご挨拶をした。


お通夜は滞りなく済んだ。
その夜、親戚一同は母の元へ集まり、
夜通し母の死を悼んだ。


告別式があるのだから、
睡眠不足で体調を崩すわけにもいかなかったが・・・
死を受け入れられない家族にとって、
安眠できるはずもなく、夜明けを迎えた。


母は、家族が睡眠時間を削る事を望んでいなかったに違いない。
わかってはいるけど、どうしても気持ちの整理がつかない。
ごめんね、おかーさん。


-告別式-
母の新しい旅立ちにふさわしい、澄み切った秋晴れの日。

母の同級生たちが、
遠路はるばる最後の別れの為に来てくれた。

できれば生きているうちに会いたかった、同級生たち。幼馴染たち。

去年の60歳、還暦の年に奄美へ帰った母。
ついこの間の事のように、
同級生たちは母との思い出話を沢山話してくれた。

葬儀屋さんの協力の甲斐あって、
告別式が始まる直前まで棺を開けていただき、
参列していただくすべての人が、
かわるがわる母に別れの挨拶をしてくれた。


ピンク色の棺。
ピンクの縁取りの、遺影。

遺影の写真は、どうしても笑っている顔が良かった。
いつも朗らかに笑っていた。それが母らしいからだ。

※不謹慎なのは百も承知ですが、
このブログを読んでくださっているすべての方へ
母の病気の行く末を見守ってくださった御礼と
お披露目の意味も込めて、モザイク無しで載せさせていただきます。
どうか御許し下さい。※

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この写真は、2016年4月に神戸の親戚の家で撮影されたもの。
この頃は病気の陰など微塵も感じられなかった。
母の笑顔から察するに、とても楽しい話をしていたに違いない。
造り笑顔などではなく、自然な笑顔である。


その遺影の周りには、
沢山の花々がハートマーク模様を施すかのように飾られていた。
母の、最期の精一杯のこころを込めて。


色については、葬儀屋さんからの提案だった。


基本的には白で統一するのが主流だが
青・ピンク・白の3色から選べる、との事。


父は、優しい色合いのピンクを選んだ。
私も弟も、異論はなかった。


告別式も滞りなく終了。
火葬場にて、骨上げを済ませ、初七日も済ませた。


※初七日とは※

故人が三途の川のほとりに到着する日とされており、
故人の生前の行いによって三途の川の渡り方が分けられると考えられている。


生前に良い行いをしてきた者は橋を用意され、
少し悪い行いをした者は浅瀬を渡り、
悪い行いをしたものは深みを渡らされると考えられている。

初七日法要は、故人が無事に三途の川を渡るために大切な供養のこと。





母は間違いなく、
橋を用意されているだろうな!ヾ(≧▽≦)ノ



こうして、母の死から旅立つ日までの4日間は、怒涛のように過ぎて行った。


page16へつづく。












会社にて。
母の死を悲しむ暇がないくらい、
トイレ行く暇が惜しいほどに
こんな時に限って、結構慌ただしかったりする(笑)
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通常の出荷業務に加え、9月20日〆(プチ)決算。
常に電話は鳴り続け、FAX対応に追われる。
商品が届いていない、不良品があったなどのクレーム処理。
顧客からの、商品の見積もりの案件。
9月25日へ支給する従業員の給料の配当、手配。
請求処理、支払い明細作成。





忙しすぎて頭から煙が出そうな勢いである。
てゆーかハゲそう!


仕事の合間をぬって、
母の訃報を各取引先へFAXを流した。
組合にも。

途端に電話のコールが数倍増しに('A`)ヴァー


だれかぁー
でんわとってぇーーーーーwwww


事務所に私ひとりなので、
まぁ~~~対応など限られてますわな。
ここまできたらもう、開き直るしかない⊂⌒~⊃。Д。)⊃!

と、そこへ父から電話。

父『これからメソメソ宛に葬儀屋の業者から電話が入るから、インタビューに答えてやってくれ』
私『えっ?』
父『手紙のようなものを作成するので、簡単に答えてくれれば勝手に文章考えるみたいやから』
私『・・・簡単にって・・・応えられるかわからんけど、まぁわかった』
父『忙しいのにすまんな。わしより、メソメソのほうがうまく答えられると思ったんや』


業者からの電話は、昼にかかってきた。
質疑応答の内容は、母の性格や経歴、一番の思い出などだった。


私『・・・・・・』


父からの電話で依頼されたときは、軽く返事したものの・・・
これ、結構メンタル的にキツかった~~~( ;∀;)
だって、母の事を思い出しながら、、、だし
声が震えるし泣けてくるし、仕事はワンサカあるわけで
まともに応えられるはずもなく^^;


私『すみません・・・伝えたい事沢山ありすぎるので、原稿を作成し、書面で提出します』


業者は5時までに提出お願いします、と言い
私は『必ず仕上げます』と伝えた。


原稿は下記の通りです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
●●葬祭 ご担当者さま

2017年9月22日 (母の名前) 61歳 永眠
著:○○ ○○(長女)




≪性格≫

母は明るくて、前向きで、かかわりあうすべての人に
やさしく接することが出来る人でした。

人望が厚く、誰からも好かれる人。
どこで何をしていても常に楽しそうに取り組んでいました。
物欲が無く、物をいつまでも大事にできる人でした。

『絶対治す』『大丈夫だから、泣くな』と周りに元気と活力を与えつづけ、
病気が発覚し、最後の刻を迎えるまで諦めることなく頑張り続けていました。

人に弱みを見せたがらない母は、泣きたいのは自分のほうなのに、
心配をかけまいとして常に気丈に振る舞い、
たいしたことなかったかのように日常へ戻りたかったのだと思います。


≪生涯≫
奄美大島出身の母は、
9人兄弟のうち5番目の子供、三女として誕生しました。
高校卒業まで奄美大島で暮らし、大阪へ上京。
3歳年下の父と出会い、結婚。

その後、長女(私)、長男(弟)の二人の子供に恵まれます。
子供が大好きだった母は、沢山たくさん子供が欲しい、
子供たちに囲まれて過ごしたい、常に言っていたそうです。
子供の為、家庭のために、支え続け、一生懸命でした。

結婚してからは専業主婦でおさまることはなく、
常にパート勤務で働いていました。
パート勤めが終わってからは子供たちの塾の送迎、
長女のバレーボールの試合の応援、
そしておいしい食事をたくさん作ってくれていました。

中でも母のトンカツは固すぎて、
あまりおいしくなかったのを覚えています。

それでも、家族みんな残すことなく、きれいに完食しました。
通学中は、毎朝早起きして、お弁当を必ず用意してくれました。


子供たちが成人し、長女は結婚。
父と、長男の3人暮らしが始まりました。

数年後、母に転機が訪れます。

今から約15年ほど前に遡りますが、
父が勤め先の会社を引き継ぐことになり、
母は経理事務として入社することになりました。

これまでパソコンや会社経営の事務、
会計など携わったことがない母にとって、
毎日が苦労の連続だったようです。

不慣れで、怒られながら、
失敗しながらも父と二人三脚で切り盛りし、
父から離れていくことなく常に支え続けていました。


会社の軌道がのりはじめた数年後には、
長男、祖父(父方)、長女、長女の夫も加わり、
会社運営にさらに磨きがかかります。


土日祝日関係なく、会社に出勤してきては
溜まった事務作業をこなしていた母。

『電話がかかってこない分、仕事がはかどるからラクよー』

とよく言っていました。

休めていないようだったし、
せめて1日くらい休んだら?と声をかけるものの、

『経営者になったらわかるよ。大変だけどね!商売って面白いよ

と笑いながら語っていたのを覚えています。

母はよく季節の変わり目に体調を崩しては
会社を3日間ほど休養していました。

症状としては、主にめまいと吐き気、時々熱もだしていました。
そのたびに血液検査などを行うのですが、特に異常は見られず。
医師からは『疲れているのでしょう』と言われ、
薬を飲み、休めば体は回復しました。


病気が発覚したのは2017年3月17日。
血液中に異常がみつかり、入院を余儀なくされました。

それから約5か月間、闘病をし続けた母。
抗がん剤の副作用で体はつらいはずなのに、
点滴を振り回しながらラジオ体操をするなどして元気度をアピール。

治らない病気、治りにくい病気と言われながらも
なんとか治してみせると信じて、
先生の言うことを素直に聞き、病魔の恐怖と闘い続けました。

5か月の闘病の末、9月22日午前1時12分。
家族に見守られながら、静かに、眠るように旅立ちました。




≪思い出≫
長女は生まれつき体が弱かったため、
よく病院に連れて行ってくれたのを覚えています。

高熱で苦しみ、ぜんそくで息苦しく眠れないとき、
背中をさすってくれて、私が寝付くまで夜通し起きていてくれました。

そのたびに
『強い体に産んであげられなくてごめんね』
謝ってくれました。


買い物に連れて行ってくれたり、
部活のたびにお弁当作って応援にきてくれたり、
泣いていると抱きしめてくれたり、
父親に怒られたあとは母がなだめてくれたり、
祖母や祖父の面倒をよく見て、
家族旅行は本当にたのしくて、
私たち家族にとって最高の母親であり、
最高の女性であり、
私は母の娘で良かったと思っています。

誕生日のたびに
『産んでくれてありがとう』
と何度も言いました。

唯一、母孝行が出来なかったことと言えば、
母に孫を抱かせてあげられなかったこと。

母は、私が産んだ子供の面倒を見たいと話してくれていました。
叶えてあげられず、本当にごめんなさい。




≪贈る言葉≫

おかあさん。
おかあさんのために、こんなにたくさんの人が集まってくれたよ。
すごいね。おかあさんのこと、大好きな人たちでいっぱいやで。

みてますか?聞いてますか?

お別れは本当につらいです。離れたくない、寂しい、そばに居たい。
連れてってほしい。でも、そんなこと言うたらおかあさん絶対怒るよね。

おかあさんに教えてもらった事、人を思いやること、
そしてそれは、全部自分に返ってくること。

全部、ココに引き継ぎました。
人にやさしくするって、すごく難しいよ。

おかあさんみたいにうまくできないけど、
助けてもらいながら、協力し合いながらがんばるね。
天国で見守っててくださいね。
大好きなおかあさん。素敵な人生をありがとうございました。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

↑提出後、長すぎるためかなり割愛されました(笑)
ウン、確かに長いー(笑)





夕方、弟が関西空港へ奄美の姐さんたちを車で迎えに行き、
寝不足のまま、なんとか残り4名で業務を終了することができた。


さぁ、これでひと段落だぁ~・・・


という訳にもいかず(笑)
帰ったら帰ったで、母の友人たちに訃報を伝える作業に取り掛かる。
母のケータイを片手に、登録されている番号へ
片っ端から電話をかけた。


叔父と父親がある程度やってくれていたが、
全員には掛けていなかったようだ。


とりあえず連絡リストと母のアドレス帳を照らし合わせ
晩御飯を食べるのを後回しにして、、、
とにかく早く連絡しなければ!という一心で連絡しまくった。


親しいご友人なら話は早く、
突然の訃報に驚きながらもとても丁寧に対応してくれ、
そして死を悲しんでくれた。


中には疎遠になってしまっていて
『誰だったっけ?』と母の事を覚えていないかたもいらっしゃったので
しょうがないこととはいえ、説明にとても難儀した。


あと、連絡するうえで非常に困ったことがふたつあった。
まず、、、、


母のアドレス帳に登録されている、
すべてのご友人たちの名前が
ニックネームであること。


『苗字わからねぇ('A`)』


”みつこ”とか”まさお”などの、下の名前ならまだよい。


”あびぃ”とか”おかず”などの呼び名で登録してあるので
電話に出られた方に対し


『はじめまして。私は(母の名前)の娘の、メソメソと申します。失礼ですが、”あびぃ”さんの携帯番号でお間違いないでしょうか?』


と、聞くことになる(笑)(笑)
そして、もうひとつ。


奄美の友人なのか、
地元の友人なのか
わからない件ッ!



地元のご友人ならば、
都合さえつければお通夜または告別式に参列できると思う。


しかし、奄美のご友人たちともなると
飛行機の手配ができるかどうかに依るので
お通夜は無理だろうし、告別式に間に合うかどうかも怪しい_(:3 」∠ )_


・・・母の事を想えばこそ。
登録しているかた全員に連絡したほうが
きっと喜んでくれるはずだ。
大変だったけど、不思議と苦労だと感じることはなかった。


母の為に、精いっぱいやりたい。
最高の旅立ちの日にしたい。


page15へつづく。





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