メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

タグ:友人



会社にて。
母の死を悲しむ暇がないくらい、
トイレ行く暇が惜しいほどに
こんな時に限って、結構慌ただしかったりする(笑)
yjimage[10]

通常の出荷業務に加え、9月20日〆(プチ)決算。
常に電話は鳴り続け、FAX対応に追われる。
商品が届いていない、不良品があったなどのクレーム処理。
顧客からの、商品の見積もりの案件。
9月25日へ支給する従業員の給料の配当、手配。
請求処理、支払い明細作成。





忙しすぎて頭から煙が出そうな勢いである。
てゆーかハゲそう!


仕事の合間をぬって、
母の訃報を各取引先へFAXを流した。
組合にも。

途端に電話のコールが数倍増しに('A`)ヴァー


だれかぁー
でんわとってぇーーーーーwwww


事務所に私ひとりなので、
まぁ~~~対応など限られてますわな。
ここまできたらもう、開き直るしかない⊂⌒~⊃。Д。)⊃!

と、そこへ父から電話。

父『これからメソメソ宛に葬儀屋の業者から電話が入るから、インタビューに答えてやってくれ』
私『えっ?』
父『手紙のようなものを作成するので、簡単に答えてくれれば勝手に文章考えるみたいやから』
私『・・・簡単にって・・・応えられるかわからんけど、まぁわかった』
父『忙しいのにすまんな。わしより、メソメソのほうがうまく答えられると思ったんや』


業者からの電話は、昼にかかってきた。
質疑応答の内容は、母の性格や経歴、一番の思い出などだった。


私『・・・・・・』


父からの電話で依頼されたときは、軽く返事したものの・・・
これ、結構メンタル的にキツかった~~~( ;∀;)
だって、母の事を思い出しながら、、、だし
声が震えるし泣けてくるし、仕事はワンサカあるわけで
まともに応えられるはずもなく^^;


私『すみません・・・伝えたい事沢山ありすぎるので、原稿を作成し、書面で提出します』


業者は5時までに提出お願いします、と言い
私は『必ず仕上げます』と伝えた。


原稿は下記の通りです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
●●葬祭 ご担当者さま

2017年9月22日 (母の名前) 61歳 永眠
著:○○ ○○(長女)




≪性格≫

母は明るくて、前向きで、かかわりあうすべての人に
やさしく接することが出来る人でした。

人望が厚く、誰からも好かれる人。
どこで何をしていても常に楽しそうに取り組んでいました。
物欲が無く、物をいつまでも大事にできる人でした。

『絶対治す』『大丈夫だから、泣くな』と周りに元気と活力を与えつづけ、
病気が発覚し、最後の刻を迎えるまで諦めることなく頑張り続けていました。

人に弱みを見せたがらない母は、泣きたいのは自分のほうなのに、
心配をかけまいとして常に気丈に振る舞い、
たいしたことなかったかのように日常へ戻りたかったのだと思います。


≪生涯≫
奄美大島出身の母は、
9人兄弟のうち5番目の子供、三女として誕生しました。
高校卒業まで奄美大島で暮らし、大阪へ上京。
3歳年下の父と出会い、結婚。

その後、長女(私)、長男(弟)の二人の子供に恵まれます。
子供が大好きだった母は、沢山たくさん子供が欲しい、
子供たちに囲まれて過ごしたい、常に言っていたそうです。
子供の為、家庭のために、支え続け、一生懸命でした。

結婚してからは専業主婦でおさまることはなく、
常にパート勤務で働いていました。
パート勤めが終わってからは子供たちの塾の送迎、
長女のバレーボールの試合の応援、
そしておいしい食事をたくさん作ってくれていました。

中でも母のトンカツは固すぎて、
あまりおいしくなかったのを覚えています。

それでも、家族みんな残すことなく、きれいに完食しました。
通学中は、毎朝早起きして、お弁当を必ず用意してくれました。


子供たちが成人し、長女は結婚。
父と、長男の3人暮らしが始まりました。

数年後、母に転機が訪れます。

今から約15年ほど前に遡りますが、
父が勤め先の会社を引き継ぐことになり、
母は経理事務として入社することになりました。

これまでパソコンや会社経営の事務、
会計など携わったことがない母にとって、
毎日が苦労の連続だったようです。

不慣れで、怒られながら、
失敗しながらも父と二人三脚で切り盛りし、
父から離れていくことなく常に支え続けていました。


会社の軌道がのりはじめた数年後には、
長男、祖父(父方)、長女、長女の夫も加わり、
会社運営にさらに磨きがかかります。


土日祝日関係なく、会社に出勤してきては
溜まった事務作業をこなしていた母。

『電話がかかってこない分、仕事がはかどるからラクよー』

とよく言っていました。

休めていないようだったし、
せめて1日くらい休んだら?と声をかけるものの、

『経営者になったらわかるよ。大変だけどね!商売って面白いよ

と笑いながら語っていたのを覚えています。

母はよく季節の変わり目に体調を崩しては
会社を3日間ほど休養していました。

症状としては、主にめまいと吐き気、時々熱もだしていました。
そのたびに血液検査などを行うのですが、特に異常は見られず。
医師からは『疲れているのでしょう』と言われ、
薬を飲み、休めば体は回復しました。


病気が発覚したのは2017年3月17日。
血液中に異常がみつかり、入院を余儀なくされました。

それから約5か月間、闘病をし続けた母。
抗がん剤の副作用で体はつらいはずなのに、
点滴を振り回しながらラジオ体操をするなどして元気度をアピール。

治らない病気、治りにくい病気と言われながらも
なんとか治してみせると信じて、
先生の言うことを素直に聞き、病魔の恐怖と闘い続けました。

5か月の闘病の末、9月22日午前1時12分。
家族に見守られながら、静かに、眠るように旅立ちました。




≪思い出≫
長女は生まれつき体が弱かったため、
よく病院に連れて行ってくれたのを覚えています。

高熱で苦しみ、ぜんそくで息苦しく眠れないとき、
背中をさすってくれて、私が寝付くまで夜通し起きていてくれました。

そのたびに
『強い体に産んであげられなくてごめんね』
謝ってくれました。


買い物に連れて行ってくれたり、
部活のたびにお弁当作って応援にきてくれたり、
泣いていると抱きしめてくれたり、
父親に怒られたあとは母がなだめてくれたり、
祖母や祖父の面倒をよく見て、
家族旅行は本当にたのしくて、
私たち家族にとって最高の母親であり、
最高の女性であり、
私は母の娘で良かったと思っています。

誕生日のたびに
『産んでくれてありがとう』
と何度も言いました。

唯一、母孝行が出来なかったことと言えば、
母に孫を抱かせてあげられなかったこと。

母は、私が産んだ子供の面倒を見たいと話してくれていました。
叶えてあげられず、本当にごめんなさい。




≪贈る言葉≫

おかあさん。
おかあさんのために、こんなにたくさんの人が集まってくれたよ。
すごいね。おかあさんのこと、大好きな人たちでいっぱいやで。

みてますか?聞いてますか?

お別れは本当につらいです。離れたくない、寂しい、そばに居たい。
連れてってほしい。でも、そんなこと言うたらおかあさん絶対怒るよね。

おかあさんに教えてもらった事、人を思いやること、
そしてそれは、全部自分に返ってくること。

全部、ココに引き継ぎました。
人にやさしくするって、すごく難しいよ。

おかあさんみたいにうまくできないけど、
助けてもらいながら、協力し合いながらがんばるね。
天国で見守っててくださいね。
大好きなおかあさん。素敵な人生をありがとうございました。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

↑提出後、長すぎるためかなり割愛されました(笑)
ウン、確かに長いー(笑)





夕方、弟が関西空港へ奄美の姐さんたちを車で迎えに行き、
寝不足のまま、なんとか残り4名で業務を終了することができた。


さぁ、これでひと段落だぁ~・・・


という訳にもいかず(笑)
帰ったら帰ったで、母の友人たちに訃報を伝える作業に取り掛かる。
母のケータイを片手に、登録されている番号へ
片っ端から電話をかけた。


叔父と父親がある程度やってくれていたが、
全員には掛けていなかったようだ。


とりあえず連絡リストと母のアドレス帳を照らし合わせ
晩御飯を食べるのを後回しにして、、、
とにかく早く連絡しなければ!という一心で連絡しまくった。


親しいご友人なら話は早く、
突然の訃報に驚きながらもとても丁寧に対応してくれ、
そして死を悲しんでくれた。


中には疎遠になってしまっていて
『誰だったっけ?』と母の事を覚えていないかたもいらっしゃったので
しょうがないこととはいえ、説明にとても難儀した。


あと、連絡するうえで非常に困ったことがふたつあった。
まず、、、、


母のアドレス帳に登録されている、
すべてのご友人たちの名前が
ニックネームであること。


『苗字わからねぇ('A`)』


”みつこ”とか”まさお”などの、下の名前ならまだよい。


”あびぃ”とか”おかず”などの呼び名で登録してあるので
電話に出られた方に対し


『はじめまして。私は(母の名前)の娘の、メソメソと申します。失礼ですが、”あびぃ”さんの携帯番号でお間違いないでしょうか?』


と、聞くことになる(笑)(笑)
そして、もうひとつ。


奄美の友人なのか、
地元の友人なのか
わからない件ッ!



地元のご友人ならば、
都合さえつければお通夜または告別式に参列できると思う。


しかし、奄美のご友人たちともなると
飛行機の手配ができるかどうかに依るので
お通夜は無理だろうし、告別式に間に合うかどうかも怪しい_(:3 」∠ )_


・・・母の事を想えばこそ。
登録しているかた全員に連絡したほうが
きっと喜んでくれるはずだ。
大変だったけど、不思議と苦労だと感じることはなかった。


母の為に、精いっぱいやりたい。
最高の旅立ちの日にしたい。


page15へつづく。





☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月5日(火)
糖鎖パウダー投与9日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37℃台・・・少し上がり始めた。
特別な治療は、私が離席することが多く
5分以内を3回程度しか行えず。。。
昨日頻繁に出ていた便は、
さほど出ていないようだった。
何か薬を使われたのかもしれない。
担当看護師に確認が取れずだった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



今日は!



母の同級生3名に面会へ来ていただきました❤
懐かしい思い出話に花が咲き、時間はあっという間に過ぎていき・・・


写真を眺めたりスマホで撮影したライブ演奏、
ハーモニカ実演もしていただきヾ(≧▽≦)ノ
奄美大島の貝殻のプレゼントまでしてくれました!



母は終始笑顔( ;∀;)。。。
やっぱ、友人たちの影響力は凄いなぁ。


少し体調が優れなくなってきたようなので、
面会時間は約30分で終了とさせていただきました。


本当はもう少し、時間の許せる限り居てもらいたかったです・・・



でもこの次は、母はもっと元気になっているハズ!?なので
その時までのお楽しみにしていただこうと思いました。



さて、母の転院のスケジュールが差し迫ってきました。


転院の主な理由としては、
現状、大学病院で可能な治療がないので、
治療が出来ない患者を置いておくスペースはないんですって。


・・ははっ
少し悪意のある書き方になってしまいました。
主治医の説明時、こういうストレートな言い方ではなかったですけどね。
分かりやすく言えばそう言う事です。


人工呼吸器を外し、自分の脚で歩けるくらいの体力が無ければ
抗がん剤を入れても耐えれないため、自殺行為になるのだそう。


念入りに説明をしてもらったので、
しぶしぶではありましたが納得しました。

悔しい気持ちはありました。
でも、リハビリを頑張って
将来奇跡が起こると信じることにしました。


という理由から、現病院よりも
リハビリに特化した病院へ転院するよう、勧められていました。
明るい部屋で個室なら・・・と言う事で要望を伝え、了承しました。


日取りが9月7日で決定・・・しそうだったのですけど
信頼を裏切るような事態が起こったため、
転院の話を白紙に戻すよう、
病院側に強く抗議しました。



今日は転院の話で揉めに揉めたので、
母が入院してから今まで疲れなど感じた事なかったのですけど
ほんとに・・・本当に最高に疲れてしまいました。。。。


なので、この話の詳細は割愛させていただきます。。。
(書く気が起きたら書こうと思います)


書く馬力もないくらい、まじで疲れました。
ひとまず、明日ケータイへ連絡が来ることになっています。


体はとても疲れているのに、目がとても冴えています。。。
今夜は眠れそうもありません


はぁ、ほんとにこまった。
しぃま、たすけて。
おじーちゃん、チカラをかして。。。



page40へつづく。



※私信※
フォロワー様方々、いつも拝読ありがとうございます。
応援していただいてる身でありながら、
ブログ応援行けず申し訳ありません・・・
心と体が落ち着きましたらお返しさせていただきます。
いつも本当にありがとうございます。








これは、母のとても大事なものである。
_20170630_201354
母が肌身離さず持っていた、黒のガラケー。

5月5日の夜、
自発呼吸が難しくなり人工呼吸器を余儀なくされ、
ICUへ移動直前までずっと手に持っていたケータイ。


『電話したい・・・お願い・・・ケータイ・・・・』


消え入りそうな声で先生へお願いするも、
ケータイを没収され、通話やメールをさせてもらえなかった。


伝えたいことが沢山あって、
連絡とりたい友達が沢山いて、
受信メールの返信がしたくて。。。


ICUは高度医療清潔区域領域になるため、
私物を持って入ることは不可能だった。


母がICUへ入っている間は、
母のケータイの電源を切り、自宅で保管していた。


母の容態が良くなったら、親しい友人に連絡しよう。
父の判断だった。


電源を切ってから、およそ1か月。
母は人工呼吸器をつけたままだが、
容態は著しく回復し、元の病棟へ戻ることが出来た。


病棟に戻ってから、10日ほど経過したある日。
家族の精神的不安定さも解消され、
穏やかな日常へ戻りつつあった。
母の親しい友人に連絡を入れるべく、ケータイの電源を入れた。





メールの受信件数ががががgggg



無菌病棟に戻った母は、
人工呼吸器装着により話すことはできないが
目も耳も聞こえるので、簡単な意思疎通はできた。

勝手にケータイを見る訳には行かないので、
母の了解を貰い、メールの内容を目の前で確認させてもらった。


奄美の親戚たちからの心配メール。
和歌山の親友たちからのランチのお誘いメール。
母の同級生たちからの同窓会のお知らせメール。
会社の同僚たちからの心配メール。
幼馴染からの何気ないメール。


メールだけじゃない。
お留守番センターからも通知が来ていた。


きっと、返信がないので電話をくれたのだろう。
最初は他愛ない内容だったメールも、
徐々に心配しているので連絡くださいと書かれている内容ばかりになり
心から母を慕ってくれている人たちがこんなに居るんだ、と改めて知った。


父に頼まれ、母の友人たちひとりひとりに電話をかけた。
母の代わりに、メールの返信もした。


詳しい病気をほとんどの人に伝えておらず、
ただ『しばらく入院するね』としか伝えていないようだった。


母の事だから、大ごとにして心配させたくなかったんだと思う。
願わくば、何事もなかったかのようにみんなの元へ戻りたかったに違いない。


自分の声で真実を話すことが出来ず、
指を動かす力が無いため、
ご友人たちへの連絡が大幅に遅れてしまったことをなるべく丁寧に詫びた。


家族以外は面会を断っている状態なので、
人工呼吸器が離脱できれば即連絡します、と伝えると


『ありがとうございます。ご家族様もどうか、体調ご自愛ください』


とあたたかい言葉をかけてもらえた。


母は毎日、沢山の人から気持ちを受け取っている。
早く良くなってください。元気になってください。会いたいです。

ガラケーにメールが来れば読んで聞かせているし、
タブレットには奄美の親戚たちからのわいわいLINEが盛りだくさん
詰まっているので、文字サイズを最大にして、
顔の前へかかげて、読んでもらっている。


本当に嬉しそう。
見ているこっちも、すごく嬉しいし安心する。


この瞬間はいつも、生きててくれて良かったって思える。
明日の治療の糧は、周りの人たちのお陰で満ち足りている気がします。


いつも本当にありがとうございますm(_ _"m)
感謝の言葉が止まりません。


母の回復が、最大の恩返しになると思うので、
病気にくじけそうになったらメールを読んで聞かせ、
生きる希望を与え続けたいと思います。






page10へつづく。

このページのトップヘ