これは、母のとても大事なものである。
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母が肌身離さず持っていた、黒のガラケー。

5月5日の夜、
自発呼吸が難しくなり人工呼吸器を余儀なくされ、
ICUへ移動直前までずっと手に持っていたケータイ。


『電話したい・・・お願い・・・ケータイ・・・・』


消え入りそうな声で先生へお願いするも、
ケータイを没収され、通話やメールをさせてもらえなかった。


伝えたいことが沢山あって、
連絡とりたい友達が沢山いて、
受信メールの返信がしたくて。。。


ICUは高度医療清潔区域領域になるため、
私物を持って入ることは不可能だった。


母がICUへ入っている間は、
母のケータイの電源を切り、自宅で保管していた。


母の容態が良くなったら、親しい友人に連絡しよう。
父の判断だった。


電源を切ってから、およそ1か月。
母は人工呼吸器をつけたままだが、
容態は著しく回復し、元の病棟へ戻ることが出来た。


病棟に戻ってから、10日ほど経過したある日。
家族の精神的不安定さも解消され、
穏やかな日常へ戻りつつあった。
母の親しい友人に連絡を入れるべく、ケータイの電源を入れた。





メールの受信件数ががががgggg



無菌病棟に戻った母は、
人工呼吸器装着により話すことはできないが
目も耳も聞こえるので、簡単な意思疎通はできた。

勝手にケータイを見る訳には行かないので、
母の了解を貰い、メールの内容を目の前で確認させてもらった。


奄美の親戚たちからの心配メール。
和歌山の親友たちからのランチのお誘いメール。
母の同級生たちからの同窓会のお知らせメール。
会社の同僚たちからの心配メール。
幼馴染からの何気ないメール。


メールだけじゃない。
お留守番センターからも通知が来ていた。


きっと、返信がないので電話をくれたのだろう。
最初は他愛ない内容だったメールも、
徐々に心配しているので連絡くださいと書かれている内容ばかりになり
心から母を慕ってくれている人たちがこんなに居るんだ、と改めて知った。


父に頼まれ、母の友人たちひとりひとりに電話をかけた。
母の代わりに、メールの返信もした。


詳しい病気をほとんどの人に伝えておらず、
ただ『しばらく入院するね』としか伝えていないようだった。


母の事だから、大ごとにして心配させたくなかったんだと思う。
願わくば、何事もなかったかのようにみんなの元へ戻りたかったに違いない。


自分の声で真実を話すことが出来ず、
指を動かす力が無いため、
ご友人たちへの連絡が大幅に遅れてしまったことをなるべく丁寧に詫びた。


家族以外は面会を断っている状態なので、
人工呼吸器が離脱できれば即連絡します、と伝えると


『ありがとうございます。ご家族様もどうか、体調ご自愛ください』


とあたたかい言葉をかけてもらえた。


母は毎日、沢山の人から気持ちを受け取っている。
早く良くなってください。元気になってください。会いたいです。

ガラケーにメールが来れば読んで聞かせているし、
タブレットには奄美の親戚たちからのわいわいLINEが盛りだくさん
詰まっているので、文字サイズを最大にして、
顔の前へかかげて、読んでもらっている。


本当に嬉しそう。
見ているこっちも、すごく嬉しいし安心する。


この瞬間はいつも、生きててくれて良かったって思える。
明日の治療の糧は、周りの人たちのお陰で満ち足りている気がします。


いつも本当にありがとうございますm(_ _"m)
感謝の言葉が止まりません。


母の回復が、最大の恩返しになると思うので、
病気にくじけそうになったらメールを読んで聞かせ、
生きる希望を与え続けたいと思います。






page10へつづく。