メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

タグ:ガラケー

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ある日の会話。


父「メソメソ。おかーさんのケータイ、解約してもいいか?」
私「・・・・あー・・・・」
父「おかーさんのケータイ、メール受信してへんやろ?」
私「・・・まぁ、頻度は減ってるけど。まったくないってわけじゃないよ。」
父「そうか。まぁ、会社で契約してるってのもあるしなぁ・・・」
私「うん、そうやね。お父さんがそれでいいなら、解約しよっか」


2月17日(土)に、母の携帯を解約することにしました。
本当は、解約なんてしたくなかったけど。
お金かかるし、ガラケー自体将来使えなくなる、とのことだったので、
やむおえず、といった感じでした。

通信できなくなった黒のガラケーは、
母の仏壇の前に置いてあります。


メールの通信記録、アドレス帳。
何も触ってません。
当時のまま、置いてあります。


友人が多い母なので、少しずつでも、、、
携帯を解約したことを
ご友人たちにお知らせしていこうと思います。




おわり



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小さな卓上カレンダーをテレビ台の上に置いていたが、
文字が小さく横になりながら見ることが出来ないので
会社にあった大きめのカレンダーをパクり←
母の病室のロッカーへ貼り付けた。


母『・・・・・・(ジーー)』


ホワイトボードに何月何日何曜日、そして天候を大きめに書き、
その下にカレンダーを貼り付け、
母の事ふくめ家族の予定を書き込むことにした。


8月5日、6日は母のもとへお客さんがやってくる日。
土曜日は母の同級生、日曜日は私の義父母と面会。


カレンダーを見ながら、
その日が来るまで嬉しそうにカウントをしていた。


私『この日は体調崩したらあかんで!』
母『・・・・(コクコクとうなずく)』


週末、台風5号の進み具合が心配だったが、
見事に晴天に恵まれた!


母の同級生2名が地元の駅に到着したので、
車を走らせ、迎えに行った。


久しぶりの逢瀬に、同級生たちはやや興奮気味?( *´艸`)
車中で簡単に今の症状を伝えて、心の準備をしてもらい・・・
それから母と対面してもらった。


母も同級生たちも、感動の涙を流し
手をしっかりと握りしめながら、
学生時代のころの話や同窓会の話、
そのほか楽しかった思い出話をたくさん話してくれた。


およそ2時間ほど、楽しい時間を過ごし・・・
2人の同級生たちは、それぞれの家に帰って行った。
再会の約束を忘れずに(*^^*)!







次の日の日曜日。


この日も、お昼頃病室へ向かうと
スヤスヤと寝ていたので起こした。


夜は、眠りが浅かった様子・・・
しんどさはなく、ただ眠いとの事だったので、
予定通り、私の義父母と面会をしてもらった。


母は、義母に握手を求め
『ありがとう、ありがとう』を繰り返し
目をそらさず、義母の言葉をじっと聞いていた。


義父母両名は、母よりも年上夫婦だ。
2人とも、今のところ健康状態にある。
やはり、どうしても義父母の事を羨ましく感じてしまう。


母のほうが年が若いのに・・・とか。
母の何がいけなかったんだろう・・・とか。
呼吸器さえなければ・・・・とか。


もちろん、義父母にはこれからもずっと健康で居てもらいたい。
それは、私の父と母にも言えることであって・・・
知り合う人すべてに、願う事でもあって・・・・


もちろん、私自身にも言えることで。


母は言葉を発せない分、
きっと色んな感情が、常に渦巻いているんだと思う。


それをなるべく、緩和して
軽減させてあげて
理解してあげて
いつか退院できたときに、
思い出話として、過去のことを笑い飛ばしたい。


この日の夜、母は自分のケータイを操作し
メールをひたすら読んでいた。
無菌病棟引っ越しして間もないころ、
重くて持つことさえできなかった、自分のガラケー。
あの頃を振り返れば、本当に回復してきたなぁって実感する。
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どうか、このまま・・・
『頑張れない日』が、永遠に来ませんように。




page19へつづく。







これは、母のとても大事なものである。
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母が肌身離さず持っていた、黒のガラケー。

5月5日の夜、
自発呼吸が難しくなり人工呼吸器を余儀なくされ、
ICUへ移動直前までずっと手に持っていたケータイ。


『電話したい・・・お願い・・・ケータイ・・・・』


消え入りそうな声で先生へお願いするも、
ケータイを没収され、通話やメールをさせてもらえなかった。


伝えたいことが沢山あって、
連絡とりたい友達が沢山いて、
受信メールの返信がしたくて。。。


ICUは高度医療清潔区域領域になるため、
私物を持って入ることは不可能だった。


母がICUへ入っている間は、
母のケータイの電源を切り、自宅で保管していた。


母の容態が良くなったら、親しい友人に連絡しよう。
父の判断だった。


電源を切ってから、およそ1か月。
母は人工呼吸器をつけたままだが、
容態は著しく回復し、元の病棟へ戻ることが出来た。


病棟に戻ってから、10日ほど経過したある日。
家族の精神的不安定さも解消され、
穏やかな日常へ戻りつつあった。
母の親しい友人に連絡を入れるべく、ケータイの電源を入れた。





メールの受信件数ががががgggg



無菌病棟に戻った母は、
人工呼吸器装着により話すことはできないが
目も耳も聞こえるので、簡単な意思疎通はできた。

勝手にケータイを見る訳には行かないので、
母の了解を貰い、メールの内容を目の前で確認させてもらった。


奄美の親戚たちからの心配メール。
和歌山の親友たちからのランチのお誘いメール。
母の同級生たちからの同窓会のお知らせメール。
会社の同僚たちからの心配メール。
幼馴染からの何気ないメール。


メールだけじゃない。
お留守番センターからも通知が来ていた。


きっと、返信がないので電話をくれたのだろう。
最初は他愛ない内容だったメールも、
徐々に心配しているので連絡くださいと書かれている内容ばかりになり
心から母を慕ってくれている人たちがこんなに居るんだ、と改めて知った。


父に頼まれ、母の友人たちひとりひとりに電話をかけた。
母の代わりに、メールの返信もした。


詳しい病気をほとんどの人に伝えておらず、
ただ『しばらく入院するね』としか伝えていないようだった。


母の事だから、大ごとにして心配させたくなかったんだと思う。
願わくば、何事もなかったかのようにみんなの元へ戻りたかったに違いない。


自分の声で真実を話すことが出来ず、
指を動かす力が無いため、
ご友人たちへの連絡が大幅に遅れてしまったことをなるべく丁寧に詫びた。


家族以外は面会を断っている状態なので、
人工呼吸器が離脱できれば即連絡します、と伝えると


『ありがとうございます。ご家族様もどうか、体調ご自愛ください』


とあたたかい言葉をかけてもらえた。


母は毎日、沢山の人から気持ちを受け取っている。
早く良くなってください。元気になってください。会いたいです。

ガラケーにメールが来れば読んで聞かせているし、
タブレットには奄美の親戚たちからのわいわいLINEが盛りだくさん
詰まっているので、文字サイズを最大にして、
顔の前へかかげて、読んでもらっている。


本当に嬉しそう。
見ているこっちも、すごく嬉しいし安心する。


この瞬間はいつも、生きててくれて良かったって思える。
明日の治療の糧は、周りの人たちのお陰で満ち足りている気がします。


いつも本当にありがとうございますm(_ _"m)
感謝の言葉が止まりません。


母の回復が、最大の恩返しになると思うので、
病気にくじけそうになったらメールを読んで聞かせ、
生きる希望を与え続けたいと思います。






page10へつづく。

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