メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

2017年10月



こんばんは、ご無沙汰しています。


母が天国の階段へ登り始めてから
もうすぐ1か月経とうとしていますね・・・


早いなぁ。


母のことを忘れたわけじゃありません。
平日は仕事が本当に大変で、
心も体も追いつかない状態で、
気づけば涙であふれていて・・・・
しょうもない凡ミスを連発するようになって
自分に対して、かなりの自己嫌悪。
何もしたくない。
恥ずかしながら、そんな毎日を過ごしています。。。


寝ても何をしても、気分が上がらず。
体調は、良いんだか悪いんだかよくわからなくて。
常に全身がけだるく、、、
寝ていても起きているような錯覚に陥ったり、
喉の部分がつっかえているような、
熱いような、、、病院行ったけど、喉の炎症などは無く。
『自律神経の乱れでしょう』と言われ、漢方薬を渡された。


はぁ。。。
気分転換する気にもなれない。


毎日毎朝毎夜、遺影に手を合わせ
今日あった出来事などを話す日々。


他愛のない私の話を、笑いながら聞いてくれています。


御仏前には母が使っていた黒のガラケーを置き、
母がいつでもケータイの着信を確認できるように・・・
解約はしないつもりです。


時々、着信やメールを受信している。
母の事を、いつまでも慕ってくれている人たちの存在は
私の心の隙間を、少しずつ埋めてくれた。


休みの日は、ぼんやりすることが多くなった。
ベッドに横になって、天井ばかり眺める。
入院中の母の、主な過ごし方を真似してみた。
・・・・なんて退屈なんだろう。


休みの日だというのに、何をする気力も起きず。
晴れの日が続いた日は、恨めしく思い。
雨の日が続いた日は、さらに悲しみが増した。


でも、これだけは毎日欠かさずやっていることがある。
遺影の横に置いてある花瓶の水を替えること。
埃が付かないように、お仏壇の掃除をこまめにすること。
夕ご飯を作った日は、いつもの温かいご飯とお茶に加え、
おかずを何品か小皿に乗せ、お供えしている。


『ありがとう。沢山作ってくれたね。美味しそう!』


顔をほころばせながら、そう言ってもらえてる気がした。


10月29日は、満中陰(まんちゅういん)。
母が無事、迷うことなく成仏できた日となる。
故人の死をいつまでも悲しんでいては、
母が天国へ行けずこっちへ戻ってきてしまうかもしれないから・・・
本当に、本当にいい加減にしないとなぁ。


母が生前行きたがっていた、地元・奄美大島。
分骨をし、骨壺に入れて持って行く事にした。
父の提案だ。
家族みんなの温かい手(塩で清め)で、
母の遺骨を大事に大事に骨壺へ入れた。


※『手によって分骨をする』という方法は、
真言宗派の御坊様と、ご葬儀の方々の意見を参考に
自宅にて執り行いました。


奄美大島へ家族5人で。
11月23日~25日に行くんだ。


次の休みには、しぃまのお墓詣りに行こう。
モコも、一緒に。


しぃま、おかーさんのこと頼むね。
おかーさん、しぃまのこと、よろしくね。



この更新をもちまして、
母の闘病記を終了とさせていただきます。


約半年にわたり更新してまいりましたが、
長いようで短かったように思います。


応援していただきまして、本当にありがとうございました。
簡単ではございますが、ご挨拶とさせていただきます。


母の生きた証を綴ったこのブログは、
『しまりすな日々。』同様、閉鎖は致しません。


落ち着いたころに、少しずつ更新していきます。
これからもよろしくお願いいたします。



-END-





-お通夜前夜-

金曜の夜、
奄美の親戚たちが家に集まって来てくれた。


その他、地元の親戚や近所の方たち、
会社で大変お世話になった人たち、
地元の特に親しい友人たちが、
自宅で静かに寝ている母の元へ、
葬儀場に入る前にご挨拶に来てくれた。


みんな口を揃えて言う。

『あんなに元気だったのに』
『未だに信じられない』
『とても綺麗なお顔ですね』って。


母は、目を開けることはないけれど
来てくれた人たちひとりひとりに
丁寧に御礼を言っているかのよう。


入院前、入院中、退院後。
沢山の人たちに親切にしてきた母。


めぐりめぐって、
母が与えた『まごころ』は、
こうしてわすられる事なくかえってきている。


悲しみの涙や、お別れの言葉を沢山いただいた。


-お通夜-
葬儀屋さんが到着、棺を運び込み
母の服(装束)を着替えさせ、メイクを施してくれた。


最期の親孝行、と言う事で、
片足ずつ、草履をはかせてあげた。


身に纏うものは、これですべて揃った。
あとは、腰元にお弁当を持たせ、
三途の川を渡るときに必要なものである『六文銭』を持たせた。


生前、良く使っていた母の私物を棺に入れ込んだ。
母の服、母のメガネ、仕事で使っていたエプロン。
鏡、うちわ、千羽鶴、オセロ、奄美のかるた。
そして、、、うなぎのクッションも。
どれもこれも、母の大事なものたち。
天国へ旅立つとき、一緒に持って行ってもらうのだ。





天候がやや心配だったが、なんとか雨は免れた。

弔問客は200人を超え、弔電は100通以上にものぼった。
場内にはたくさんの供花が所狭しと添えられている。

受け付けは、奄美の従妹たちに頼んだ。
喪主である父を筆頭に、弟と旦那、叔父が入口にて迎え入れ、
母の血のつながった姐さんたち、そして私、叔母とともに
ご焼香台の両側へ着席し、それぞれ弔問客へご挨拶をした。


お通夜は滞りなく済んだ。
その夜、親戚一同は母の元へ集まり、
夜通し母の死を悼んだ。


告別式があるのだから、
睡眠不足で体調を崩すわけにもいかなかったが・・・
死を受け入れられない家族にとって、
安眠できるはずもなく、夜明けを迎えた。


母は、家族が睡眠時間を削る事を望んでいなかったに違いない。
わかってはいるけど、どうしても気持ちの整理がつかない。
ごめんね、おかーさん。


-告別式-
母の新しい旅立ちにふさわしい、澄み切った秋晴れの日。

母の同級生たちが、
遠路はるばる最後の別れの為に来てくれた。

できれば生きているうちに会いたかった、同級生たち。幼馴染たち。

去年の60歳、還暦の年に奄美へ帰った母。
ついこの間の事のように、
同級生たちは母との思い出話を沢山話してくれた。

葬儀屋さんの協力の甲斐あって、
告別式が始まる直前まで棺を開けていただき、
参列していただくすべての人が、
かわるがわる母に別れの挨拶をしてくれた。


ピンク色の棺。
ピンクの縁取りの、遺影。

遺影の写真は、どうしても笑っている顔が良かった。
いつも朗らかに笑っていた。それが母らしいからだ。

※不謹慎なのは百も承知ですが、
このブログを読んでくださっているすべての方へ
母の病気の行く末を見守ってくださった御礼と
お披露目の意味も込めて、モザイク無しで載せさせていただきます。
どうか御許し下さい。※

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この写真は、2016年4月に神戸の親戚の家で撮影されたもの。
この頃は病気の陰など微塵も感じられなかった。
母の笑顔から察するに、とても楽しい話をしていたに違いない。
造り笑顔などではなく、自然な笑顔である。


その遺影の周りには、
沢山の花々がハートマーク模様を施すかのように飾られていた。
母の、最期の精一杯のこころを込めて。


色については、葬儀屋さんからの提案だった。


基本的には白で統一するのが主流だが
青・ピンク・白の3色から選べる、との事。


父は、優しい色合いのピンクを選んだ。
私も弟も、異論はなかった。


告別式も滞りなく終了。
火葬場にて、骨上げを済ませ、初七日も済ませた。


※初七日とは※

故人が三途の川のほとりに到着する日とされており、
故人の生前の行いによって三途の川の渡り方が分けられると考えられている。


生前に良い行いをしてきた者は橋を用意され、
少し悪い行いをした者は浅瀬を渡り、
悪い行いをしたものは深みを渡らされると考えられている。

初七日法要は、故人が無事に三途の川を渡るために大切な供養のこと。





母は間違いなく、
橋を用意されているだろうな!ヾ(≧▽≦)ノ



こうして、母の死から旅立つ日までの4日間は、怒涛のように過ぎて行った。


page16へつづく。










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