メソメソのblogー母が骨髄異形成症候群になる-

2017年3月16日、母が60歳にして骨髄異形成症候群と診断されました。
このブログは母の闘病記録して更新していきます。

DSC_0098
画像は奄美で宿泊した『山羊島ホテル』に居た白ヤギさん。
実はホテルの館長だという噂が・・・あったりなかったり。
先日アップするのを忘れていたので投稿しました。
今回の記事とまったく関係ないので、悪しからずm(_ _"m)





帰宅時間は夕方6時ごろだった。
モコを旦那の実家に預けていたため、
荷物を置いてすぐお迎えに行った。



父と私ら夫婦は旅疲れもあり、早めに就寝。
弟は、夜遊びに出掛けていた。


日曜日、父と私ら夫婦は
旅行バッグの片付けや洗濯物を片付けた後、
会社に溜まっているであろう発注書の確認&仕事をするべく、
会社に向かった。
弟は、体調が悪いとの事で1日中家で寝ていた。


月曜日。
臨時休業含め、連休明けでとても忙しい日。。。
そして、新しい仲間となる従業員の出勤初日でもある。


弟の容態が思った以上にひどく、
熱が39度ある、とのことだったので
仕事を休まざるを得なかった。
高熱で運転できないので、父が弟を病院まで連れて行った。


人手が足りず、現場は騒然('A‘)
日曜日、仕事しといて良かった。。。
本気でそう感じた日だった。


弟は、胃カメラ検査と2時間ほどの点滴を打ち、
インフルエンザの検査を受けた。
インフルエンザではなかったようだが、
扁桃腺が腫れ上がっていて声が出ず、
食事が喉を通らないという。


咳が止まらなくて、とても苦しそうだ。



弟が先陣を切って体調を崩し、
翌日の火曜日、続いて父も風邪を引いたようである。
声が全く出なくなった。。。。
でも、熱はない、と言い切り仕事をしている。
病院に行って!と言っても聞かない。
どうしたもんか・・・・と、途方に暮れていると



次の日の水曜日。
私も風邪ひいちまっただよ!


喉がなーんかイガイガムズムズするし、背筋が寒い。
でも、食欲は今のトコある。。。熱はなし。
変な汗はでている(笑)



ごめん!病院行ってくるわ!!



お昼前、少し手が空いたので
会社から徒歩3分にある、町医者の元へGO。


医者『喉が少し赤いですね。夜は熱が出るかもしれないので、咳止めと熱さましの薬出しておきますね。お大事に』


早速、昼ごはんを食べた後薬を飲んだ。
眠気が容赦なく襲ってくるものの・・・
出荷が落ち着くまでは、ユンケル飲みながら仕事を頑張った。


夕方、落ち着いたので早退させてもらい
たまごがゆを作って食べ、薬を飲んですぐ寝た。
父と弟は、容態回復の兆し無し。


そして木曜日。


私の体調はほぼ回復!
背筋の寒気や変な汗は出なくなったが、
油断は禁物と言う事でマスクを装着して出勤。
早退することなく、無事に業務を終えた。
我ながら素晴らしい回復力だわ♪
初期症状のうちに病院へ行った、というのが功を奏したのだろう!


そして父&弟、回復の兆しは無し・・・・


金曜日。
シャガレ声のまま、父は得意先の忘年会へ出張。
弟は、微熱まで下がったものの
点滴2時間コース&扁桃腺が腫れたままなので食事は摂れない状態。



金曜日はまぁまぁ忙しかったが、なんとか乗り切った。
新人さんは、電話を取ってくれたり雑務業務を黙々とこなしてくれた。
人が居るってスバラシイ!(´;д;‘)ブワッ


そして待ちに待ちかねた休日。


泥のように眠る・・・・わけでもなく。
天気が良かったので、
布団を干したり掃除をしたり(主に風呂場周辺)
父&弟の部屋とトイレ以外本気掃除をした。


父&弟は、少しは回復しているようではあるが
まだまだ本調子とは行かないカンジ。。。


父は観念して土曜日、ようやく病院へ行った。
弟は点滴2時間コース。
声は少し出るようになった。


久々にネトゲを楽しみ、夕方は旦那に付き添ってもらって
近くのスーパーへ歩いて買い物に出た。


今夜はおでんを作った。
残業の日々で外食が多かったので、
久々の手料理は美味しかった(*´ε`*)♪



おしまい。












出発前、前夜の事。
親戚一同、食事をしていたときに、
従妹の兄が言った言葉を聞いてください。


従妹兄『こんな時でしか集まれない、と言うのはあまりにも寂しすぎる。奄美大島と和歌山の距離は、決して近いとは言えん。でもね。せっかく恵子姉ちゃん(メソ母の事)がせっかく繋いでくれたんだから。今までは遠くにいる親戚だったかもしれんけど、これからは『家族』として向き合いたいち思うとる。奄美へ来たら、和歌山に行ったら、必ず集まるようにしよう!必要以上の遠慮なんて、これからはナシや!』


現在、社長(41歳)をやっている、従妹の兄。
早くに父を亡くし、やんちゃを沢山して母を困らせてきた彼だったが
14年前に独立し、家族を守り、会社を今日まで守ってきた。
想像を絶するほどの苦労をしてきたのだろう。。。
彼の言葉の一つ一つがとてもたくましく、芯があり、心に響いた。


叔父ではなく『○○兄』と呼び、
叔母ではなく『●●姉』と呼び、
年下の従妹はみんな呼び捨て。


呼び方ひとつで、こんなに堅苦しくなくなるんだなぁ・・・。
こんなに、近づくことが出来るんだ。
この日、兄と姉、妹と弟が一度に沢山できたような気がした。


従妹兄『メソメソ。そこは遠慮するとこじゃないが?自分の父親には、カラダ壊すかもしれんからお酒飲みすぎるなって言えるのに、義理の親父には言わんつーのは違う。産みの親には遠慮せんやろ?だったら、旦那の親にも同じように言わんかいや。同じように心配せなあかん。』


従妹兄『おい、タダシ。自分が兄貴に頼んだんやろ?”それ、お皿に取って”と。兄貴が皿に盛ってくれたら、グダグダ言わずに喰え!なーにが”やっぱり食べれない”ちゃ。男が一度言うたことを覆すなち』


こんな兄ちゃんと一緒に育って居たら、
私ももっと芯の熱い、心の太い人間になれたかも、、、
なんて思ってしまうほど、説得力があり、
社長の風格だなぁと思えるほどに
ブレることのない、素晴らしい考え方だと感心した。


従妹兄に限らず、奄美の知り合いはすべて情に厚い人ばかりである。
沢山の人に知ってもらいたいので、ぜひとも島の風習を紹介したい。


まず・・・・


断らない!
特にいただきものなどは、断る=無礼に値するらしく
基本的には嫌な顔をせず、すべて贈り物はいただくらしい。


鍵を閉めない!
これは奄美大島の地域にもよると思うが、
基本的には玄関は開けっぱなし、との事。
皆が知り合いなので、勝手に家に上がり、
くつろいでいると、ご飯が出てくるのだという。
要するに、人を疑う事をしない人たちの集まりである。
なので、人を傷つけると言った事件・事故は起きないのだそう。


食べきれないほどの食事が出る!!
綺麗に完食=ご飯が足りないと思うようで、
お茶碗やお皿がからっぽになることはまずありえない。
次から次へと出てくる食事達。
それも、すべて手作りなのだから本当に驚きである。
私などは、お皿が片付かなくてやだな・・・と思う事でも
親戚たちからすれば『また明日たべればいいから』と言って
笑顔で冷蔵庫に仕舞うのであった。


涙もろい!!
情に厚いからこそ・・・だと思うのだが、
再会した時はうれし泣き(周りはもらい泣き)、
思い出話に花が咲きうれし泣き、
別れがつらくて悲し泣き(周りはもらい泣き)・・・
と言うように、ハンカチを手放せないほど
とにかく泣き上戸な親戚たちである。


・・・と、まぁもっと思い起こせばあると思いますが・・・、
思い出したらまた書き足しますので、このあたりで抑えておきますね(笑)


風習とは関係ありませんが
地下鉄や電車がなく、交通手段は車かバス、とのこと。


道路は片側一車線、歩道は広くとってあるので
自転車走行はとても安心・安全です。


のんびり走っている車や、迷惑駐車などに
クラクションを鳴らすことは絶対ないのだそう。


その車がどくか、通行できるようになるまで
待てる人たちなのです・・・


そりゃ、事件や事故は起きませんわね^^;
慌ただしくない環境で、のんびり仕事をしたいです。


そんなこんなで奄美空港にて別れを惜しまれながら、
無事に帰路に着きました。


母が奄美大島出身であることに、感謝できた数日間でした。








11月24日(金)。


喪服に身を包み、納骨前に母の供養をしていただくべく
浄土真宗のお寺へと足を運んだ。


願いは叶い、お天気は見事に晴れ!
さほど寒くもなく、絶好の日和を迎えた。


お念仏が終わり、お墓に移動すると
親戚以外の方々が数名いらしてました。


母の、地元同級生がかけつけてくれたようです。
合掌し、お線香をあげてくれました。


墓石には、母の名前が彫られていました。
奄美のおばあちゃんの名前の横に、母の名前。。。
納骨までに姉たちが手配してくれたようです。
撮影をしたのだけど、やはりプライバシーのことを懸念し
控えさせていただくことにしましたm(_ _"m)


お墓の場所は、海がすぐ見える場所にあって、
とても静かな場所でした。
その海は、母が幼少のころ遊んだ海だと聞いた。
母の実家が近くにある。


信じられないかもしれないが、
実家は徒歩1分で海に行ける場所にあるんです。
それがこの写真。
嘉鉄海①
ちょっと曇ってて海のきらめきがわかりにくいのが残念。。。
弟&旦那が海辺にて黄昏ております。
もう一枚、海をパシャリ☆
嘉鉄海②
さざなみの音は、なんでこんなに落ち着くんだろう。。。
ただぼんやりと、会話を交わすでもなく
しばらく海辺を散策した。


納骨を済ませたあとは、母の実家で御馳走をいただいた。


それから、ホノホシ海岸へ連れて行ってもらった。
奄美のデートスポット的な場所??( *´艸`)


沢山食べすぎたので、食後の運動にはちょうど良い。
まずは入り口~~
ホノホシ入り口①
貸し切りなのか、だーれもいない(; ・`д・´)・・・
花道をずんずん歩いていく!
ホノホシ花道
むーーーー曇り空が恨めしいー!!
午前中は晴れてたのにな。
明日は雨かもしれないなぁ。。。
天気はアレだったけど、綺麗な花畑だったのでパシャリ☆
ホノホシ華
丸石の沢山ある砂浜??
足場が悪くて歩きづらかったけど
ただ歩いてるだけなのに何故か楽しかった♪
足の裏に刺激をもらいつつ・・・
まるでツボを刺激されてるようだった(笑)
ホノホシ石浜
散策していると洞窟(洞穴?)も発見!
満潮時はおそらく海につかる場所のように見受けられた。
珍しかったので思わず撮影(*'ω'*)
ホノホシ洞窟
最後に、撮影スポットである場所で旦那ソロで撮影(笑)
角度がいまいちでごめんなさい(*ノωノ)
ホノホシぽちょ
夜は、私ら夫婦が宿泊するホテルのレストランを予約してもらい
親戚総勢16名で食事を楽しんだ。


はーぁ、とにかく本当に食べ過ぎたぁー。
食べれるって本当に幸せです。


代償として、体重増加で帰宅することになるだろうな(笑)
そのくらい、滞在中は最高のおもてなしをしていただいた。


露天風呂も楽しみ、奄美最後の夜を過ごした。
明日は帰る日。。。


あーーーーーーーもぉ、帰りたくない!!(笑)









11月23日(木)。
出発前・・・風がとても強く、
コートを羽織らなければならないほど寒かったが
天候はまずまずの良好。
雨はなんとか回避できたようです。


旅行は23日、24日、25日と2泊3日。
9月22日に母が旅立ってから、2か月と1日が経った。
いよいよ今日、念願の奄美大島へ向かう日。
父・弟・旦那・私、そして母の5人。


飛行機は予定より数十分遅れでフライト。
1日1便しかないバニラ・エア便。
とにかくチケット代が安いとの理由で
帰省の際にはとても重宝されている航空便のようだ。


ただ、一つだけ難点を言えば・・・、


手荷物の重量が一人7kgまでっていう・・・w
ちなみにセカンドバッグ込みです^^;
7kgなんて余裕で超えますよ。


でも、、、


ほんとーに、ほんとおおおに必要なものだけを抜粋して
キャリーバッグに詰め込みました。
甲斐あってなんとか手荷物を預けることなく、
検査場を華麗にスルーできました!


預ければ、荷物1個4千円別途かかるようですから・・・w


奄美大島の気温はおよそ20℃ほど。
風は強く雨が降りそうな曇り空だったけど
さほど寒さは感じなかった。
さすが南国やなぁー(*'ω'*)♪


空港にお迎えの車が既に来ていて
叔母の家にお邪魔することに。


奄美大島の女性たちは(親戚だけなのかもしれないが)
とにかくおもてなしが凄まじい(; ・`д・´)


出るわ出るわ、食べ物・食べ物・食べ物!


一体どんだけ食べさすの??ってくらい
めっちゃ出てくるんです。


ナシ・リンゴ・バナナ、
パン・大福・温かいお茶。などなど!
お茶に至っては、湯飲みが空っぽになることはなく
エンドレスに注がれた。


それが自然にできるんだから尊敬してしまう。
嫁として見習わないとな~(笑)


数時間ほど、母の思い出話で盛り上がり
泣いたり笑ったりしながら、あっという間に
時間が過ぎていった。


夜ご飯は、懐石料理のお店を予約してくれた。
懐石料理は叔母たちのベストチョイスで
ぜーーーんぶ美味しかった!!!
DSC_0068
めちゃ豪華でしょー( *´艸`)!!


正直残すかなって思ったけど、
安定の完食でした(笑)(笑)(笑)


おかーさんもみんなの談笑を笑顔で見守っていました。
DSC_0070
写真の後ろには、おかーさんのお骨が入った骨壺があります。


奄美にこれたことがよほどうれしかったのか、
壺から少しだけ母が出てきていました(>_<)
※蓋が少しだけ空いていたのです(生々しくてすみません)※


ちゃんと蓋したはずなんですけどね。。。
きっと嬉しくて我慢できなかったのでしょう!


食事がすんだあと、みんなで集合写真を撮り、
従妹姉さんにホテルまで送ってもらいました。


父と弟は叔母の家にお世話になることになり、
私たち夫婦はホテルを予約。


明日は、母の分骨の儀式。


隙を見て写真を撮れたら撮ります・・・!
不謹慎ですが、どうか許してくださいm(_ _"m)



明日は晴れますように。






 




こんばんわ、ご無沙汰しています。



母の四十九日の日は、
奇しくも大型台風の影響でひどく荒れた天気となってしまいました。



先祖のお墓がある場所は○○高原の山頂付近にあり・・・
先日の台風の影響で土砂災害が起き、
道路が一部倒壊していたため迂回せねばならず、
とにかくお寺へ着くのに倍以上の時間がかかりました。



当日は横殴りの大雨・・・



母が亡くなって仕上げの大事な日だというのに。
降りしきる雨の中、供養をしていただき、納骨を済ませました。
お線香を焚くことができませんでした。。。



冷たかっただろうに。
母は寒いのが苦手でした。


こちらでは法要の儀式は一通り終了したけど・・・・
おかーさんはひょっとしたらまだ旅の途中かもしれない。


母の事だから、時々やすみながら
コーヒーでも飲んで、
おにぎりをかじりつつ、、、
私たちの事を上から眺めているかもしれません。


亡くなってから今日まで、泣かない日は一度たりともありません。
遺影を見ると、まだ悲しくてしょうがありません。
女々しいと思われても構いません・・・


どうすれば、悲しみで泣かずに済みますか?


四十九日が済んだので、
今日は少しずつ母の遺品を家族みんなで整理しました。


父は泣きすぎて手につかない様子だったので
部屋で休んでもらう事にしました。


遺品整理はできても、心の整理はまだまだ片付きそうもありません。


毎度毎度、暗い話で申し訳ありません。
いつも拝読いただきありがとうございますm(_ _"m)










こんばんは、ご無沙汰しています。


母が天国の階段へ登り始めてから
もうすぐ1か月経とうとしていますね・・・


早いなぁ。


母のことを忘れたわけじゃありません。
平日は仕事が本当に大変で、
心も体も追いつかない状態で、
気づけば涙であふれていて・・・・
しょうもない凡ミスを連発するようになって
自分に対して、かなりの自己嫌悪。
何もしたくない。
恥ずかしながら、そんな毎日を過ごしています。。。


寝ても何をしても、気分が上がらず。
体調は、良いんだか悪いんだかよくわからなくて。
常に全身がけだるく、、、
寝ていても起きているような錯覚に陥ったり、
喉の部分がつっかえているような、
熱いような、、、病院行ったけど、喉の炎症などは無く。
『自律神経の乱れでしょう』と言われ、漢方薬を渡された。


はぁ。。。
気分転換する気にもなれない。


毎日毎朝毎夜、遺影に手を合わせ
今日あった出来事などを話す日々。


他愛のない私の話を、笑いながら聞いてくれています。


御仏前には母が使っていた黒のガラケーを置き、
母がいつでもケータイの着信を確認できるように・・・
解約はしないつもりです。


時々、着信やメールを受信している。
母の事を、いつまでも慕ってくれている人たちの存在は
私の心の隙間を、少しずつ埋めてくれた。


休みの日は、ぼんやりすることが多くなった。
ベッドに横になって、天井ばかり眺める。
入院中の母の、主な過ごし方を真似してみた。
・・・・なんて退屈なんだろう。


休みの日だというのに、何をする気力も起きず。
晴れの日が続いた日は、恨めしく思い。
雨の日が続いた日は、さらに悲しみが増した。


でも、これだけは毎日欠かさずやっていることがある。
遺影の横に置いてある花瓶の水を替えること。
埃が付かないように、お仏壇の掃除をこまめにすること。
夕ご飯を作った日は、いつもの温かいご飯とお茶に加え、
おかずを何品か小皿に乗せ、お供えしている。


『ありがとう。沢山作ってくれたね。美味しそう!』


顔をほころばせながら、そう言ってもらえてる気がした。


10月29日は、満中陰(まんちゅういん)。
母が無事、迷うことなく成仏できた日となる。
故人の死をいつまでも悲しんでいては、
母が天国へ行けずこっちへ戻ってきてしまうかもしれないから・・・
本当に、本当にいい加減にしないとなぁ。


母が生前行きたがっていた、地元・奄美大島。
分骨をし、骨壺に入れて持って行く事にした。
父の提案だ。
家族みんなの温かい手(塩で清め)で、
母の遺骨を大事に大事に骨壺へ入れた。


※『手によって分骨をする』という方法は、
真言宗派の御坊様と、ご葬儀の方々の意見を参考に
自宅にて執り行いました。


奄美大島へ家族5人で。
11月23日~25日に行くんだ。


次の休みには、しぃまのお墓詣りに行こう。
モコも、一緒に。


しぃま、おかーさんのこと頼むね。
おかーさん、しぃまのこと、よろしくね。



この更新をもちまして、
母の闘病記を終了とさせていただきます。


約半年にわたり更新してまいりましたが、
長いようで短かったように思います。


応援していただきまして、本当にありがとうございました。
簡単ではございますが、ご挨拶とさせていただきます。


母の生きた証を綴ったこのブログは、
『しまりすな日々。』同様、閉鎖は致しません。


落ち着いたころに、少しずつ更新していきます。
これからもよろしくお願いいたします。



-END-





-お通夜前夜-

金曜の夜、
奄美の親戚たちが家に集まって来てくれた。


その他、地元の親戚や近所の方たち、
会社で大変お世話になった人たち、
地元の特に親しい友人たちが、
自宅で静かに寝ている母の元へ、
葬儀場に入る前にご挨拶に来てくれた。


みんな口を揃えて言う。

『あんなに元気だったのに』
『未だに信じられない』
『とても綺麗なお顔ですね』って。


母は、目を開けることはないけれど
来てくれた人たちひとりひとりに
丁寧に御礼を言っているかのよう。


入院前、入院中、退院後。
沢山の人たちに親切にしてきた母。


めぐりめぐって、
母が与えた『まごころ』は、
こうしてわすられる事なくかえってきている。


悲しみの涙や、お別れの言葉を沢山いただいた。


-お通夜-
葬儀屋さんが到着、棺を運び込み
母の服(装束)を着替えさせ、メイクを施してくれた。


最期の親孝行、と言う事で、
片足ずつ、草履をはかせてあげた。


身に纏うものは、これですべて揃った。
あとは、腰元にお弁当を持たせ、
三途の川を渡るときに必要なものである『六文銭』を持たせた。


生前、良く使っていた母の私物を棺に入れ込んだ。
母の服、母のメガネ、仕事で使っていたエプロン。
鏡、うちわ、千羽鶴、オセロ、奄美のかるた。
そして、、、うなぎのクッションも。
どれもこれも、母の大事なものたち。
天国へ旅立つとき、一緒に持って行ってもらうのだ。





天候がやや心配だったが、なんとか雨は免れた。

弔問客は200人を超え、弔電は100通以上にものぼった。
場内にはたくさんの供花が所狭しと添えられている。

受け付けは、奄美の従妹たちに頼んだ。
喪主である父を筆頭に、弟と旦那、叔父が入口にて迎え入れ、
母の血のつながった姐さんたち、そして私、叔母とともに
ご焼香台の両側へ着席し、それぞれ弔問客へご挨拶をした。


お通夜は滞りなく済んだ。
その夜、親戚一同は母の元へ集まり、
夜通し母の死を悼んだ。


告別式があるのだから、
睡眠不足で体調を崩すわけにもいかなかったが・・・
死を受け入れられない家族にとって、
安眠できるはずもなく、夜明けを迎えた。


母は、家族が睡眠時間を削る事を望んでいなかったに違いない。
わかってはいるけど、どうしても気持ちの整理がつかない。
ごめんね、おかーさん。


-告別式-
母の新しい旅立ちにふさわしい、澄み切った秋晴れの日。

母の同級生たちが、
遠路はるばる最後の別れの為に来てくれた。

できれば生きているうちに会いたかった、同級生たち。幼馴染たち。

去年の60歳、還暦の年に奄美へ帰った母。
ついこの間の事のように、
同級生たちは母との思い出話を沢山話してくれた。

葬儀屋さんの協力の甲斐あって、
告別式が始まる直前まで棺を開けていただき、
参列していただくすべての人が、
かわるがわる母に別れの挨拶をしてくれた。


ピンク色の棺。
ピンクの縁取りの、遺影。

遺影の写真は、どうしても笑っている顔が良かった。
いつも朗らかに笑っていた。それが母らしいからだ。

※不謹慎なのは百も承知ですが、
このブログを読んでくださっているすべての方へ
母の病気の行く末を見守ってくださった御礼と
お披露目の意味も込めて、モザイク無しで載せさせていただきます。
どうか御許し下さい。※

1505844643073
この写真は、2016年4月に神戸の親戚の家で撮影されたもの。
この頃は病気の陰など微塵も感じられなかった。
母の笑顔から察するに、とても楽しい話をしていたに違いない。
造り笑顔などではなく、自然な笑顔である。


その遺影の周りには、
沢山の花々がハートマーク模様を施すかのように飾られていた。
母の、最期の精一杯のこころを込めて。


色については、葬儀屋さんからの提案だった。


基本的には白で統一するのが主流だが
青・ピンク・白の3色から選べる、との事。


父は、優しい色合いのピンクを選んだ。
私も弟も、異論はなかった。


告別式も滞りなく終了。
火葬場にて、骨上げを済ませ、初七日も済ませた。


※初七日とは※

故人が三途の川のほとりに到着する日とされており、
故人の生前の行いによって三途の川の渡り方が分けられると考えられている。


生前に良い行いをしてきた者は橋を用意され、
少し悪い行いをした者は浅瀬を渡り、
悪い行いをしたものは深みを渡らされると考えられている。

初七日法要は、故人が無事に三途の川を渡るために大切な供養のこと。





母は間違いなく、
橋を用意されているだろうな!ヾ(≧▽≦)ノ



こうして、母の死から旅立つ日までの4日間は、怒涛のように過ぎて行った。


page16へつづく。












会社にて。
母の死を悲しむ暇がないくらい、
トイレ行く暇が惜しいほどに
こんな時に限って、結構慌ただしかったりする(笑)
yjimage[10]

通常の出荷業務に加え、9月20日〆(プチ)決算。
常に電話は鳴り続け、FAX対応に追われる。
商品が届いていない、不良品があったなどのクレーム処理。
顧客からの、商品の見積もりの案件。
9月25日へ支給する従業員の給料の配当、手配。
請求処理、支払い明細作成。





忙しすぎて頭から煙が出そうな勢いである。
てゆーかハゲそう!


仕事の合間をぬって、
母の訃報を各取引先へFAXを流した。
組合にも。

途端に電話のコールが数倍増しに('A`)ヴァー


だれかぁー
でんわとってぇーーーーーwwww


事務所に私ひとりなので、
まぁ~~~対応など限られてますわな。
ここまできたらもう、開き直るしかない⊂⌒~⊃。Д。)⊃!

と、そこへ父から電話。

父『これからメソメソ宛に葬儀屋の業者から電話が入るから、インタビューに答えてやってくれ』
私『えっ?』
父『手紙のようなものを作成するので、簡単に答えてくれれば勝手に文章考えるみたいやから』
私『・・・簡単にって・・・応えられるかわからんけど、まぁわかった』
父『忙しいのにすまんな。わしより、メソメソのほうがうまく答えられると思ったんや』


業者からの電話は、昼にかかってきた。
質疑応答の内容は、母の性格や経歴、一番の思い出などだった。


私『・・・・・・』


父からの電話で依頼されたときは、軽く返事したものの・・・
これ、結構メンタル的にキツかった~~~( ;∀;)
だって、母の事を思い出しながら、、、だし
声が震えるし泣けてくるし、仕事はワンサカあるわけで
まともに応えられるはずもなく^^;


私『すみません・・・伝えたい事沢山ありすぎるので、原稿を作成し、書面で提出します』


業者は5時までに提出お願いします、と言い
私は『必ず仕上げます』と伝えた。


原稿は下記の通りです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
●●葬祭 ご担当者さま

2017年9月22日 (母の名前) 61歳 永眠
著:○○ ○○(長女)




≪性格≫

母は明るくて、前向きで、かかわりあうすべての人に
やさしく接することが出来る人でした。

人望が厚く、誰からも好かれる人。
どこで何をしていても常に楽しそうに取り組んでいました。
物欲が無く、物をいつまでも大事にできる人でした。

『絶対治す』『大丈夫だから、泣くな』と周りに元気と活力を与えつづけ、
病気が発覚し、最後の刻を迎えるまで諦めることなく頑張り続けていました。

人に弱みを見せたがらない母は、泣きたいのは自分のほうなのに、
心配をかけまいとして常に気丈に振る舞い、
たいしたことなかったかのように日常へ戻りたかったのだと思います。


≪生涯≫
奄美大島出身の母は、
9人兄弟のうち5番目の子供、三女として誕生しました。
高校卒業まで奄美大島で暮らし、大阪へ上京。
3歳年下の父と出会い、結婚。

その後、長女(私)、長男(弟)の二人の子供に恵まれます。
子供が大好きだった母は、沢山たくさん子供が欲しい、
子供たちに囲まれて過ごしたい、常に言っていたそうです。
子供の為、家庭のために、支え続け、一生懸命でした。

結婚してからは専業主婦でおさまることはなく、
常にパート勤務で働いていました。
パート勤めが終わってからは子供たちの塾の送迎、
長女のバレーボールの試合の応援、
そしておいしい食事をたくさん作ってくれていました。

中でも母のトンカツは固すぎて、
あまりおいしくなかったのを覚えています。

それでも、家族みんな残すことなく、きれいに完食しました。
通学中は、毎朝早起きして、お弁当を必ず用意してくれました。


子供たちが成人し、長女は結婚。
父と、長男の3人暮らしが始まりました。

数年後、母に転機が訪れます。

今から約15年ほど前に遡りますが、
父が勤め先の会社を引き継ぐことになり、
母は経理事務として入社することになりました。

これまでパソコンや会社経営の事務、
会計など携わったことがない母にとって、
毎日が苦労の連続だったようです。

不慣れで、怒られながら、
失敗しながらも父と二人三脚で切り盛りし、
父から離れていくことなく常に支え続けていました。


会社の軌道がのりはじめた数年後には、
長男、祖父(父方)、長女、長女の夫も加わり、
会社運営にさらに磨きがかかります。


土日祝日関係なく、会社に出勤してきては
溜まった事務作業をこなしていた母。

『電話がかかってこない分、仕事がはかどるからラクよー』

とよく言っていました。

休めていないようだったし、
せめて1日くらい休んだら?と声をかけるものの、

『経営者になったらわかるよ。大変だけどね!商売って面白いよ

と笑いながら語っていたのを覚えています。

母はよく季節の変わり目に体調を崩しては
会社を3日間ほど休養していました。

症状としては、主にめまいと吐き気、時々熱もだしていました。
そのたびに血液検査などを行うのですが、特に異常は見られず。
医師からは『疲れているのでしょう』と言われ、
薬を飲み、休めば体は回復しました。


病気が発覚したのは2017年3月17日。
血液中に異常がみつかり、入院を余儀なくされました。

それから約5か月間、闘病をし続けた母。
抗がん剤の副作用で体はつらいはずなのに、
点滴を振り回しながらラジオ体操をするなどして元気度をアピール。

治らない病気、治りにくい病気と言われながらも
なんとか治してみせると信じて、
先生の言うことを素直に聞き、病魔の恐怖と闘い続けました。

5か月の闘病の末、9月22日午前1時12分。
家族に見守られながら、静かに、眠るように旅立ちました。




≪思い出≫
長女は生まれつき体が弱かったため、
よく病院に連れて行ってくれたのを覚えています。

高熱で苦しみ、ぜんそくで息苦しく眠れないとき、
背中をさすってくれて、私が寝付くまで夜通し起きていてくれました。

そのたびに
『強い体に産んであげられなくてごめんね』
謝ってくれました。


買い物に連れて行ってくれたり、
部活のたびにお弁当作って応援にきてくれたり、
泣いていると抱きしめてくれたり、
父親に怒られたあとは母がなだめてくれたり、
祖母や祖父の面倒をよく見て、
家族旅行は本当にたのしくて、
私たち家族にとって最高の母親であり、
最高の女性であり、
私は母の娘で良かったと思っています。

誕生日のたびに
『産んでくれてありがとう』
と何度も言いました。

唯一、母孝行が出来なかったことと言えば、
母に孫を抱かせてあげられなかったこと。

母は、私が産んだ子供の面倒を見たいと話してくれていました。
叶えてあげられず、本当にごめんなさい。




≪贈る言葉≫

おかあさん。
おかあさんのために、こんなにたくさんの人が集まってくれたよ。
すごいね。おかあさんのこと、大好きな人たちでいっぱいやで。

みてますか?聞いてますか?

お別れは本当につらいです。離れたくない、寂しい、そばに居たい。
連れてってほしい。でも、そんなこと言うたらおかあさん絶対怒るよね。

おかあさんに教えてもらった事、人を思いやること、
そしてそれは、全部自分に返ってくること。

全部、ココに引き継ぎました。
人にやさしくするって、すごく難しいよ。

おかあさんみたいにうまくできないけど、
助けてもらいながら、協力し合いながらがんばるね。
天国で見守っててくださいね。
大好きなおかあさん。素敵な人生をありがとうございました。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

↑提出後、長すぎるためかなり割愛されました(笑)
ウン、確かに長いー(笑)





夕方、弟が関西空港へ奄美の姐さんたちを車で迎えに行き、
寝不足のまま、なんとか残り4名で業務を終了することができた。


さぁ、これでひと段落だぁ~・・・


という訳にもいかず(笑)
帰ったら帰ったで、母の友人たちに訃報を伝える作業に取り掛かる。
母のケータイを片手に、登録されている番号へ
片っ端から電話をかけた。


叔父と父親がある程度やってくれていたが、
全員には掛けていなかったようだ。


とりあえず連絡リストと母のアドレス帳を照らし合わせ
晩御飯を食べるのを後回しにして、、、
とにかく早く連絡しなければ!という一心で連絡しまくった。


親しいご友人なら話は早く、
突然の訃報に驚きながらもとても丁寧に対応してくれ、
そして死を悲しんでくれた。


中には疎遠になってしまっていて
『誰だったっけ?』と母の事を覚えていないかたもいらっしゃったので
しょうがないこととはいえ、説明にとても難儀した。


あと、連絡するうえで非常に困ったことがふたつあった。
まず、、、、


母のアドレス帳に登録されている、
すべてのご友人たちの名前が
ニックネームであること。


『苗字わからねぇ('A`)』


”みつこ”とか”まさお”などの、下の名前ならまだよい。


”あびぃ”とか”おかず”などの呼び名で登録してあるので
電話に出られた方に対し


『はじめまして。私は(母の名前)の娘の、メソメソと申します。失礼ですが、”あびぃ”さんの携帯番号でお間違いないでしょうか?』


と、聞くことになる(笑)(笑)
そして、もうひとつ。


奄美の友人なのか、
地元の友人なのか
わからない件ッ!



地元のご友人ならば、
都合さえつければお通夜または告別式に参列できると思う。


しかし、奄美のご友人たちともなると
飛行機の手配ができるかどうかに依るので
お通夜は無理だろうし、告別式に間に合うかどうかも怪しい_(:3 」∠ )_


・・・母の事を想えばこそ。
登録しているかた全員に連絡したほうが
きっと喜んでくれるはずだ。
大変だったけど、不思議と苦労だと感じることはなかった。


母の為に、精いっぱいやりたい。
最高の旅立ちの日にしたい。


page15へつづく。








転院前の、ある日の会話。


母は9月2日に61歳の誕生日を迎え、
看護師が来るたびに、外出許可もらいたくてしきりに訴えていた。



『外の空気が吸いたい。です』
『夕方、迎えに来てもらって帰ろうかなー♪♪』
『17時に、家族が迎えに来るんです』
『1泊だけでも、だめですか?』
『ケーキを買って帰るんです。ウナギと、マグロも』
『おうちに、帰りたい・・・・お願いします・・・・』


誕生日だというのに。
母の、なけなしの願いは叶わなかった。

やっと帰れる・・・・
でも、こんな状態で、家に帰ることになるなんて。


デイルームへ、看護師が呼びに来た。
母の体についていた沢山のコードたちはすべて外され、
人工呼吸器、心電図モニターなどはすべて撤収。
部屋には、母が着替えさせられて静かに横たわっていた。


私たち家族は、声にならない声をだし、
目を開けぬ母にすがりつき、泣き続けた。


看護師たちによって目を閉じさせてもらい、
母の顔に薄くではあるが化粧が施されていた。


血色がよく、口元は少し微笑んでいるかのように開いていた。
純粋に、ただ寝ているだけのようにも見える。

まるで、肩を揺らせば起き上がりそうな・・・・
適切な表現が思い浮かばないが、母の佇まいは故人として見えなかった。


『おかーさん。とても綺麗だよ』


不謹慎だが、こんな言葉を口にしてしまうほどだった。
人工呼吸器が付いていた喉は、
白のバンドエイドでテーピングされていた。


葬儀屋さんが到着し、静かにベッドを車へと運ぶ。
私が助手席に同乗し、自宅までナビゲーションをした。


自宅に到着したのは午前2時半過ぎ。
仏間に布団を敷き、母をゆっくり寝かせた。
おじいちゃんの遺影がすぐ近くにあるのだが、少しほの暗く見えた。


母『ただいまぁぁぁ!!!』


ドアを開けた瞬間は、
いつもの張り切った元気な声が聞こえるようだった。
しかし、もう二度と母の声を聞くことはできない。


翌日、、、と言っても数時間もすれば夜明けなので、
お通夜や告別式のスケジュールの打ち合わせなどは
同日22日の朝9時から行なうこととし、
ひとまず葬儀屋さんにはお帰りいただくことにした。


22日は金曜日。
不幸ごとがあったからと言って、
会社を休業するわけにもいかなかった。


父は、終日自宅にて待機し
葬儀屋と打ち合わせと親戚や母のご友人たちへの連絡をすることにした。


私含め弟・旦那・他スタッフ2名の合計5名で
会社を切り盛りすることとなるので、
少しでも睡眠をとり、業務に備える準備をした。



page14へつづく。











(閲覧注意です)

9月22日(金)。
ブログの更新を終え、母の手を握りながら時計をみると
時刻は0時30分すぎ。


母の手は、少しだけ冷たい。


エアコンを切り、布団をかけなおし、手をさする。
冷えないように、冷えないように。
おかあさん。私が付いてるから。
大丈夫やで。怖くないよ。


ふと、母の異変に気付く。


私『・・・・おかあさん・・・・?』


突如、目をシパシパし始めた。
顔が小刻みに震えている。
アラームの音が、次第に加速する。


私『・・・・おかあさん、おかあさんっ・・・・』


しばらくして、痙攣はおさまった。
しかし、アラームは依然として鳴りやまない。


私『・・・・・』


髪をなで、肩をさすり、モニターを注視する。
酸素濃度は97%まで上昇していたが、心拍数は40台まで減少。
つないだ手のぬくもりが、
だんだん離れていく感覚に陥った。



再び、痙攣が始まる。
同時に、けたたましいアラームが鳴り響く。
まるで、母の叫びにもとれるような音だった。


体が引きちぎられそうな、、、
なんと形容してよいのかわからないが、とにかく恐怖感を覚えた。


私『・・・・おかあさん、すぐ、看護師さん呼ぶからっ・・・!』


力いっぱいナースコールを押し、
数秒後看護師さん2名がかけつけてくれた。


私『・・・・母の、痙攣がっ・・・あの、あの・・・っ』
看護師『・・・ほとんど、自発呼吸できていない状態です・・・』
私『・・・家族、に、す、すぐ電話、してきます・・・!!』


ケータイどこだっけ。。。
かばん、かばん・・・・ない、ない、、、ない!
ケータイどこ!!!
・・・・ソファにあった!!


私『おかあさん!お父さんたち呼ぶから!!待ってて!!!』


壁にぶつかりながらデイルームへ移動し、
深夜と言う事もあり、静かに廊下を移動しなければと思いつつ
はやる気持ちを抑え・・・急いで父へ電話を入れた。


私『・・・・・早く出て、お父さん・・・・!!』


長いコールの後、止む追えず呼び出しを中止。
続いて、旦那に電話を入れると、すぐに出てくれた。


私『・・・お願い、お父さんと弟を起こしてすぐに来て・・・・っ!』
旦那『わかった!』



その後すぐ父から折り返しの電話が来た。
同じように伝え、母の元へ戻る事数分後。


看護師さんが、聴診器をあて胸の音を聞いていた。
心電図モニターの脈拍は、20を切っていた。


私『・・・おっ、おかーさん!!おとうさんたち呼んだ!!』
看護師『ご家族さんは、どのくらいで来られますか?』
私『早くても、10分・・・15分ぐらいかかるかもしれません・・・っ』
看護師『わかりました。当直医呼んできます』


看護師が出て行った直後、
母の、脈拍はーーーーー・・・・・・・
父たちの到着を待たずして、
波形を刻むことをやめてしまった。



私『・・・うそやろうそやろうそやろ、おかーさん、もうすぐお父さん来るんやで!!それまでここに居ってよ、ねぇ!!!ねぇ、おかあさん!!!!!う・・・・わぁあああああ~~~~・・・・・・っ』


当直医が到着、一礼をして
脈をはかり、反射がないかどうか丹念にみてくれたのち・・・
当直医は、静かに告げた。


『9月22日、午前1時12分。お亡くなりになりました。。。。』


ーーーーー告知後。
私は、母の顔をしっかりと見る。
命が尽きる瞬間まで、顔を見ながら
懸命に父がくるまで待ってほしいと頼み続けた。

痙攣がおさまった母の表情は、
目はうっすらと開いてはいたが・・・心なしか、とても安らかだった。
瞳の色は、黒いまま。。。

痙攣が起こったのはほんの少しの時間だっただけで、
特に苦しむ風でもなく、痙攣はあったもののひどく暴れることもなく、
静かに息を引き取った。

人工呼吸器は、なおも母に酸素を送り続けていた。
しかし、脈拍は回復しない。
呼吸回数もカウントしない。
心臓マッサージもできない。

理由は、心臓マッサージの圧力により、
母の体内で出血が起こってしまう可能性があるからだ。
血小板の数値が10000(通常は30万)を切っていた母にとって、
体内出血を伴う処置は命取りになる。

息を吹き返したとしても、また苦しみが待っているだけ。
以上の理由から、心臓マッサージはできない、と言われていた。


泣きじゃくる私の背中をさすりながら、
看護師は私にやさしく告げた。


看護師『これから、お母様のお体を綺麗にさせていただきますのでデイルームでお待ちいただけますか?』
私『・・・・・はい・・・・・よろしくお願いします・・・』



看護師は私に歩調を合わせながら、
ゆっくりデイルームまで促してくれた。


ひとりぼっちのデイルーム。
窓から見える景色は、夜のネオンがキラキラと輝いている。
デイルームにはドアがないので、
静かに寝ている患者さんが近くに居るため泣き叫ぶわけにもいかず・・・、
嗚咽をこらえながら、呼び出されるまで出来るだけ静かに待ち続けた。


ほどなくして、旦那が来てくれた。


旦那『・・・・・・』


だまって、肩をさすり、傍に座ってくれた。


旦那『・・・・おかあさんは・・・?』


私は、首を横に振った。


旦那『・・・・・そうか・・・・・』


その後、弟、父も到着。
母のことを伝えた。


私『午前1時12分だった・・・間に合わすことが出来なくて、本当にごめんなさい・・・!!』


真夜中のデイルームには
母を愛して止まない家族の、悲痛な鳴き声がこだました。



page13へつづく。










病室に着くと、
母の友人に付き添いを頼んでいたので、
私が到着するまでの間、
看護師や医師に対して
しっかりと対応してくれていたのでとても助かった。


心電図モニターや呼吸器モニターは
思ったより安定していた。


血圧以外は・・・の話だが。



どうやら、大量に便が出ていて
便の中に出血が混じっており、
血圧が低く悪条件が重なってしまい、
下手に母の体を動かせば
それだけで体力を消耗すると判断し、
危険な状態になるおそれがあったので父へ電話をしたのだという。


酸素濃度は100%をキープ中。
脈拍は80台。


とりあえず母の容態が落ち着くまで、
衛生面で不安はあるものの、総合的に判断し、
便の処理については一度休憩せざるを得なかった。


午後、看護師がきれいにおシモの後処理をしてくれた。
母の体の向きを変えたり痰吸引をしてもらったが
特に容態の悪化は見られずだったので、
ひとまず安堵した。。。


大量の便、そして血液が混じっていた件だが、
勝手な想像だが、昨日の電位治療器のおかげで、
体の中に溜まっていた悪いモノ(悪血含む)が
出たのかなぁ、と都合よく考えた(笑)
この考えに、母の友人も同意してくれた。


母のピンチには必ず私が駆け付ける。
すると、少しずつではあるが回復していく。
本当に、本当に説明がつかないほど不思議な現象だ。


母の友人に私が到着するまでの間、
付き添いを頼んでいたおかげで、
母も心強かったのでは、と思う。


誰もいない環境だったなら、
母は転院して次の日には旅立っていたかもしれない。


こんな状態になっても尚、母は医師のド肝を抜いた(笑)


『素晴らしい生命力です。転院から現在に至るまで、医学的にはお母様の体は限界のはずなんです。失礼な言い方になってしまいますが、ここまで持つのは信じられません。』


今日の担当看護師に、
昨日から再開した『特別な治療』の概要を簡単に説明し、
使用許可をいただいた。


血圧が低いのが心配だったので、
今回も5分間のみ行った。


母は、静かに目を閉じた。。。


夕方、商談を無事に終えた父が交代に来てくれた。
数値を見て、目に涙を浮かべながら喜んでいた。
今夜は父が泊まる、と申し出てくれたが
なんだか疲れてそうにみえたので
『私が代わるよ』と申し出た。
少しでも休んでもらいたかった。
私のほうが若いんだし(笑)
冗談交じりに笑いながら言うと、父は観念して甘えてくれた。


私は仕事を丸投げで会社を飛び出してきたため
後処理をするべく会社に戻った。
会社についてすぐ、父から連絡が入った。


父『メソメソが病室を出てすぐ、2回痙攣が起きた・・・先生の判断で、鎮痛剤(即効性の強めの薬)を入れてもらうことにした』
私『・・・うん、わかった。異論はないよ。おかーさんをなるべくラクにさせてあげて』
父『・・・・・ほんとに、すまん・・・・・』
私『・・・やっぱ、私が離れたらあかんなぁ(笑)ソッコーで仕事終わらせて、風呂入って食事済ませてそっちいくね!おかーさんに待っててって伝えて!』
父『わかった。お前が娘でよかったよ。気を付けて来いよ』
私『うん』



夜8時まで仕事をし、家で簡単に食事を済ませ
風呂にはゆーーーーっくり入って、
少し仮眠をとったあと、弟と交代した。


酸素濃度は、昼の間は常に100%をキープしていたのに。
夜11時ごろは、70後半まで下がっていた。


私『・・・・』


看護師を呼び、酸素濃度の圧?を
60%→70%まで上げてもらうよう頼んだ。


深夜0時現在。
心拍数50後半、血圧47/24、酸素濃度80後半まで引き上げた。
今のところ、痙攣らしき行動は見られない。


このまま・・・穏やかに時が過ぎるのを祈りながら
夜明けを待つ。

・・・こんな時まで病室へパソコンを持ち込み、
ブログを書くなんて不謹慎だなと自分で呆れる(笑)



page12へつづく。





9月20日。


母の友人たち、私の友人たちから
たくさんのメールや電話を頂戴した。


涙が出るほどうれしかった。
こんなに沢山の人に『おめでとう』と言ってもらえた。
これもみな、母のおかげだ。
私は今でも、母にたくさんの幸せを貰っている。


誕生日、という後押しもあり
私は、思い切って『特別な治療』をさせてもらえないか
もう一度看護師長に相談を決意する。


特別な治療とは『電位治療器』のことである。
ヘルストロンなどが有名だと思うが、
私が使用しているものは家電量販店で販売されているものではなく、
口コミでメーカーが年寄りなどをターゲットにし、
メーカー直売で販売しているものである。


今から約3年ほど前の、ある秋のこと。


地元のスーパーの駐車場の一部を借りて、
『健康になれますよ!』とうたい文句をかかげ、
いかにも怪しげな雰囲気の建物の中で『それ』と出会った。


押し売りなどは一切なかった。
気に入らなければいく必要はない。
その点は気が楽だった。

会社の知り合いに誘われ、
約3か月ほど母と一緒に通いつめ、
効能・効果・価格など納得して購入したものである。
あ、ヘルストロンではありません(笑)

私は購入してから3年ぐらい使用し続けているが、
口内炎がよくできる体質だったのができなくなり、
整体とも疎遠になり、
強いストレスを感じたとき以外はよく眠れるようになった。

しぃまのお腹のハゲも、
いくら病院でもらった薬を塗っても完治しなかったのに
この電位治療器で綺麗に回復したのだ!
結膜炎の完治が早かったのもこの機械のお陰だと思っている。



・・・信じられないと思うが、ホンマの話です(笑)


要は、血液の循環を良くし、
体の不調を改善しよう、という健康器具である。

それを、前病院の時からさせてもらっていた。
現病院へ移った当初はHCUへ入室していたため、
電子機器の持ち込みは不可だと固く拒否された。(当たり前の話だがw)


個室へ移動できたので、
前病院では使用許可が下りていたし、
なにより母の体は腎機能・肝機能が低下しているので
うまく毒素を排出・分解することが困難なため、
毒素が体内に蔓延し、体がむくみ始めている。

危機的状況に変わりはない。

電位治療器を使うことにより、少しでも
体内毒素が外に出れば・・・
良い方向に転がってくれれば・・・という願いを込めて、
なんとか処置させてもらえないか頼み込んでみた。


看護師長は、主治医に相談。
ほどなくして、使用許可は下りた。
使用中は心電図モニターの脈拍が異常値を割り出すので
そこだけ確認してもらい、5分間だけ処置をさせてもらった。


足がカサカサだったので、
ボディミルクローションをふんだんに使い
つるっつるになるまでマッサージを施した。


足はうるおいを取り戻し、
冷たかったつま先はほんのり温かくなった。


目が爛々としていた母は、
だんだんとウトウト状態になっていき・・・
やがて、いつのまにか寝てしまった。





翌日。


朝、父のもとへ病院から電話が入る。
血圧が低く母の出血が止まらない、との知らせを受けたらしく
真っ青になりながら私に言った。


父『すぐ病院へ行ってくれ!』


今日は商談会二日目。
11時からアポが入っていたので、
どうしても父は抜けれない。
弟も動けない状態。


私は仕事を丸投げし、すぐに病院へ向かった。


page11へつづく。











9月20日は私の誕生日。
誕生日は、お祝いしてもらう日ではなく、
産んでもらえたことに感謝する日。


しぃまが旅立って、ちょうど5か月が過ぎた。


可能な限り、おかーさんと一緒に過ごしたい。
でも、会社のイベントが今日から始まる。
イベント期限は、9月29日まで。。。
仕事しなければ。
ああ、こんなにも仕事が煩わしい。
誰か代わりに私の仕事をして?
そんなことばかり考えてしまう。
ああ、集中しなければ。
日中は仕事を一生懸命して、
9月20日の夜は、ずっと傍に居るつもりだ。
願わくば・・・


『お誕生日おめでとう』
『生まれてきてくれてありがとう』


って言ってもらいたい。


願わくば・・・・


『奇跡が起きますように』



page10へつづく。


 



9月14日-18日の期間。


台風18号の影響がかなり不安だったが、
予定通り無事に、奄美の親戚たちは母の元へ到着できた。


朝の9時から夜の9時まで、奄美の姐さんたちが
ずっと付き添っていてくれたおかげで、
日中は仕事に集中することが出来た。


夜は、父or弟or私のいずれかが交代で寝泊まりし、
いよいよ始まる会社イベント『地域合同商談会』の準備にいそしんだ。


その間の母の容態は、
血圧に少々の変化はあるものの比較的安定していた。


尿が出ないため、全身がむくみ始め
目をほとんどあけられなくなった。


時折、うっすらと開けることはある。
しかし、見えていないような感じだ。
呼びかけても、応答はほとんどない。


体が固まらないように、と筋を伸ばすなどの
簡単なリハビリが始まった。


以前のように、
ベッドサイドに座ったり立ったりすることはできなくなった。


痰吸引をお願いするが、
体を動かすことが殆どなくなったので
気管から吸引しても上がってこなくなった。
引いても、なかなか取れなかった。


『ただ、苦しくなるだけなので・・・・』


看護師にそう言われると・・・・
ナースコールを押す頻度は、日に日に減っていった。


夜、寝泊まり時。


看護師のように痰吸引はしてあげることはできないが、
あたたかいホットタオルで体を拭いてあげたり、
体の向きを変えたり、
母の首の後ろに手を差し込み、後頭部や首、肩など
マッサージをなるべくしてあげた。


少しでも、体にたまっている悪いモノが出てきますように。


前病院でやっていた特別な治療は、
この病院では許可が下りなかったので・・・
やってあげることが出来なかった。


可能なら、やってあげたい。
でも、個室に精密機械を置いてある以上・・・
悪影響が出る恐れがあるので(心電図の乱れ等)
いくら前病院では許可がおりていた、と説明しても
病院で入院し病院の方針である以上、あきらめざるを得なかった。


ここまで来たら・・・特別な治療など、気休めにしかならない。
私に出来る事や母自身が出来ることは、徐々に減っていった。


『オシッコが出ないので、管を入れますか?』


医師に問われた。
管を入れたからと言って尿が出るものでもなく、
体のむくみが改善する、というものでもないらしい。


病院は治療する場ではあるので強制はないものの、
とりあえず提案してくれたようだった。
決定権は、私たち家族にある。


『本人が苦しいだけなので、入れないでください』


そう答えると、医師は心よく承諾してくれた。





9月18日早朝。
奄美の親戚たちはそれぞれの家に帰っていった。


私は9月17日の夜から泊まっていたので
父が翌朝交代で来てくれたから、
家に帰って気のすむまでぐっすり眠った。


母の血圧は、いまだ低いままだったが・・・・
鎮痛剤を入れてもらったおかげで、
呼吸回数は安定し、不整脈が気になるものの
呼吸器の異常アラームがなる頻度は減った。




page9へつづく。

















父『・・・それは、まだ使わんとこ。』
私『でも・・・すぐにどうなるっていうものでもないんやで?』
父『呼吸抑制がかかるんやろ?そんな変な薬、使う必要ない』
私『変な薬って・・・おかーさんをこれ以上頑張らせる気??』
父『そうや。姉さんたちが来るまで、頑張ってもらわなあかん』
私『・・・・気持ちは、わかるけど・・・』
父『せめて、生きてるうちに会わせてやりたい。明日には来るんや。それまで、何とかもたせたい・・・酷なのはわかってる。お前が夜通し看病してて、つらいのもようわかる。わしも辛い・・・でも、みんなで辛さを乗り越えたい。これはわしのワガママや』 




私は、夜通し苦しそうな母の様子を見かねて、
『鎮痛剤』を投与したほうがいいのではないかと感じ、
看護師に相談してみた。


確かに、苦痛を伴う苦しみなら使ったほうが本人もラクだ。
しかし、呼吸器をつけている以上は、下手を打てば呼吸抑制がかかり
血圧が低いまま投与すれば、そのまま目が覚めない、なんてこともあり得るらしい。


看護師も医師も、今こそ使うべき時だと言う。
これ以上頑張る必要はないと。
苦痛をやわらげ、しっかり睡眠をとらせ、
穏やかに、眠るように旅立ちの準備をゆっくりと始めるのだ。
私も、同意見だった。


でも、父と弟は、これには反対意見だった。


『姉さんたちが来る連休まで・・・投与は待ってください』


私は、父に従った。
どっちが正しいかなんてわからん。
母の気持ちを考えれば・・・・
考えたって、わからない。


姉たちに会いたい、と願っているようにも見えるし
・・・・そろそろ、ゆっくりしたい、ともとれる。


おかーさん、頑張らせてごめん。
でも、離れたくないよ。
遠くに行かないでほしいよ。
くやしい・・・・
数か月前まであんなに元気に入院生活を送っていたのに。
こんなになるまで母を苦しめた、病気が憎い。



鎮痛剤を投与することはないまま、
いよいよ姉たちが到着する日となった。



page8へつづく。






早朝。
病院から連絡を受け、父・弟・私の3名は、母の元へ急いだ。
カーテンを空ければ、看護師が胸に聴診器を当て、
血圧測定をしていた。


母は昨日までのような面影はなく
クチを大きく開け続け、
目はうっすらと開いたままだが、
眼球の動きはあまり見られない。
苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。


顔面蒼白。。。。
呼びかけるが、応答はない。
意識が浮上しない。
駆け付けた3人の涙が止まらない。。。。。


傍に立っていた医師が口を開く。


医師『血圧が下がっていて、呼吸回数も非常に多い。不整脈により、心拍数が安定しません。血圧を上げる薬はあるにはあるのですが、体の事を考えると、、、あまりお勧めできません。熱は今40度まで上がっています。恐らく、自身の滞在菌をコントロールできず、感染症による症状かと・・・』


父『・・血圧の薬は、要りません・・治療は、結構です。静かに、見守りたいです・・・』
医師『わかりました。抗生物質と、栄養剤のみ引き続き投与し、様子を看ますね』
父『・・・・はい、お願いします・・・・』



父は会社へ向かい、
母の容態が落ち着くまで、弟と私は待機することになった。


弟が泣きじゃくっているので、
相部屋の人に悪いと思った私は、
弟に『落ち着くまでデイルームで居なよ』と言った。


弟は言われるがまま、デイルームで待機することにした。
しばらくして、師長がやってきた。


師長『おはようございます。今日は、ずっと付き添われますか・・・?』
私『はい、そのつもりです』
師長『ずっと付き添っていただけるのでしたら、個室をご用意できますが移動されますか?』
私『えっ・・・いいんですか??』
師長『ええ。先日も申し上げましたように、迅速な対応に若干不安はあるのですが、ご家族様が常に待機していてくださるのなら、個室へ移っていただけます。ただ、移動するにしても呼吸器を一瞬外さなければならないので、リスクは伴います。それでも、よろしいですか?』
私『・・・はい!ぜひ、お願いします・・・!!』
師長『わかりました。それでは、病室を調整してきますのでしばらくお待ちください』


私は、母に個室へ移動できることを伝えた。
母の反応はなかったが、耳は聞こえてると思い、
相部屋の人に迷惑にならない程度に、語りかけつづけた。


移動は、滞りなく済み・・・・
ようやく、静かな環境にホッとした。


父にも奄美の親戚たちにもLINEで報告し、
前病室で飾っていた千羽鶴や写真など、
自宅から持ってきて、病室の壁に飾ることができた。


みんなの願いのこもった、守り神たち。
母の周りに置き、親戚たちが来る9月14日まで
なんとか持ち直すよう、お祈りした。


今までだって、何度も窮地を脱出してきたんだ。
今回だって、きっと持ち直すに決まっている。


その夜、私は泊まり込みで母のそばに付き添った。
心拍数上昇、呼吸回数上昇、血圧低下により
頻繁にアラームが鳴り響く。



まるで、母の不安な気持ちを表しているかのよう・・・
母の髪をなでながら、安心させるように語り掛け続けた。


『おかーさん、おかーさん。呼吸回数、早いよ。もう少し、落ち着いて。ほら、ゆっくり深呼吸・・・そうそう、上手だね。その調子。怖いよね。つらいよね。一緒に闘おう。姉さんたちが来るまで、お願いだからもう少しここに居てね・・・私が傍に居るよ』


おかーさんにとって、一番の守り神は私。
願いが通じたのか、60を下回っていた血圧は80台まで回復。


意識の回復は薄いが、表情は和らいでいるように見えた。
でも、昨日の夜は本当に辛そうで・・・
まるで、母の寿命を縮めているような感覚に陥った。


父に、ある相談を持ち掛けた。


page7へつづく。







※page3の冒頭に戻ります※

≪転院先の会議室にて≫


私『・・・数日後には、個室に移動できるんですよね?』


師長『・・・それが・・・個室はあるにはある、んですが、個室は一般フロア病棟にしかないのです。HCUのように常にスタッフが常駐しているわけではないので、緊急事態が起こった場合、迅速に対応するつもりではありますが、スタッフ人数が少なく、対応に関して大きな不安があるのです。ナースコールを押してもすぐ来れないことも多々あります。お母様の事を考えれば、HCUで24時間看護できる方が安心だと思うのですが・・・』


私『仰りたいことはよくわかりました。人工呼吸器をつけている以上、一般病棟では診れない、と言う事ですよね?ぶっちゃけ、前病院でもありましたよ?ナースコールが鳴ってもすぐに来てくれない事なんて。母だけが入院しているわけではありませんし、出来る限りの事をやっていただければ、私たちは満足なんです。そこは、私たち家族も理解はしています。理解しているうえで、個室が良いと希望を出しているんです。』


師長『・・・・、ですが・・・・・』


私『失礼を承知で申し上げますが、HCUの状態は、慌ただしすぎて落ち着いて療養できるような環境ではない印象でした。24時間看護体制が整っているにしても、狭いうえに慌ただしい、家族待機ができるスペースもない。病院は治療をする場であるので、私が言っていることはあくまでもワガママで、病院側からすれば非常識な意見だと思います。治療や処置は行えても、メンタルな部分に大きなダメージを与えるような気がしてしょうがないんです。師長さんの立場上、責任もあるでしょうし、すぐには返答できないことだと思っています。・・・治療が出来ない、と前病院で言われました。ここも、そうなんでしょう・・・・?緩和処置しかできないんですよね・・・?』


師長『・・・・そうです・・・・治療の施しようは、ない状態です・・・・』


私『だったら、HCUで24時間看護していただく必要はないです。助かる見込みがあるなら話は別です。母には、残された時間は少ないんですよね?面会するのに気を遣う、看護師さんが忙しそうにしているのを目の当たりにすれば、用があっても我慢してしまうのが母なんです。最後の時くらい、静かな環境で、静かに見守りたいんですよ。だから、個室がいいとさっきから言ってるんです。前病院では、容態を観察するために数日間HCUで預かり、それから個室へ移動できると聞いてしぶしぶ了解したんです。それが、人工呼吸器をつけているので個室への移動は無理であると。・・・・・話が違うじゃないですか!!』


師長『・・・・お気持ちはよくわかりました。一度、個室への希望の件は預からせてください。主治医と相談し、それから決定しようと思います。病室の都合がつき次第、移動できるよう最善を尽くします。』


私『・・・・あ、ありがとうございます・・・っ!!』





病室に戻ると、母は少しぼんやりしていた。


私『・・・・、おかーさん!ただいま!』


カーテンを開け、ちょっと大きめの声であいさつをした。
視線を移した母は、私に『オシッコ』と言い、
ナースコールを押した。


看護師さんはすぐそこ(カーテンの向こう)にいるのに、
パソコンをパチパチとタイピングしたままこちらへ来ない。


私『・・・あのう、すみません。オシッコなんですけど・・・・』


24時間完全看護、のはずが
ナースコールを押してるのにすぐそこにいるにも拘わらず、
声をかけてくれない状態。


看護師『はいー』


こちらを見るふうでもなく、
無言でズボンを下ろし、尿器をあてがう。


看護師『はい、どうぞー。いいですよー』


少し押し付けられて痛いのか、顔をゆがめる母。


私『あの、押し付ける力が強いのか、身を挟んでいるのかで痛いと思うんですけど・・・』
看護師『これぐらいじゃないと、漏れちゃうんでねー出すまでの間ぐらい、我慢してくださいよ』



母は私をじっと見て、私の方向へ指をさしている。
メソメソにやってもらいたい。いつもみたいに。
そういっているような気がした。


私『・・・・、あの、私にさせてもらえませんか?前の病院でも、させてもらっていたので。』
看護師『あ、そうなんですかー?じゃ、お願いします』



やはり看護師は視線を合わさず、
さっさとカーテンの向こう側へ消えた。


私『・・・・・はい、おかーさん。いつでもいいよ♪』
母『・・・・・(力なく微笑んだ)』



しばらく粘ってみるものの、
オシッコは、出ることはなかった。
母は、申し訳なさそうに手を合わせ


母『ごめんね』


と言った。
謝ることないよ、何か用事があれば私に言ってね。
そう言い、手をしっかりと握りしめると
母も、温かい手で握り返してくれた。





夜、7時30分。
面会時間が終了に近づき、もうすぐ帰らなければならない。
看護師たちの視線が、突き刺さる。


私『・・・・そろそろ面会時間終了だ。』
母『・・・・ありがとね』
私『ずっと付き添ってあげたいんやけどね。相部屋だし、ほかの患者さんのこともあるから・・・おかーさん、また明日来るね。絶対、来るから
母『うんうん。お疲れさま』


看護師に軽く挨拶をして、私は退室した。
夜が明けて、明け方ごろ・・・母の血圧は急激に下がっていった。



page6へつづく。










父『メソメソ。話あるから来てくれ』


自宅にて。
父に呼び出され、リビングへ足を運んだ。


父は、転院の詳細を話しだした。
内容は下記のとおりである。


☆個室ではなく、4人部屋であること。
☆HCUでしか受け入れてくれないこと。
☆21日間しか置いてもらえず、超過すれば別の病院に転院させられること。
☆9月7日に必ず移動しなければならない事。



私『…そんな…』
父『希望を聞いておきながら、要望通りと話が違うままなんの連絡もなく、はいそうですかって言えるはずないやん』
私『…』
父『そりゃ、病院のベッドの事情もあるやろうから、個室が空けば転院したいって言うたんやけどね。無理やとハッキリ言われたわ。HCUに入らなあかんのは、人工呼吸器をつけてるからやと。一般病棟では診れないらしい』
私『…』
父『もともとな、血液の病気で入院したんや。自宅で肺炎になったわけちゃう。肺炎になったのは今の病院でなったもんや。だったら治らないにしても、、さい…ご、まで、看るのが筋じゃないんか…って、、父さんは言うたんや。それがなんやねん、治らないんで別の病院へ行けって…そこで死ね言うことやろ…そんなん、あまりにも殺生すぎるわ…!』
私『…』
父『だからな、メソメソ。転院の話、白紙に戻して貰お?こんなん、話と違う。奄美の姐さんたちに、申し訳なさすぎて合わせる顔があらへんっ…!!最期の時くらい、穏やかに過ごさせてやりたいねん…チカラを貸してくれ』
私『…おとーさんの気持ち、良くわかった。私も同じ気持ちやで。明日、前主治医に話聞いてもらお。一緒にお願いしよう』








家族説明室にて。


主治医に時間をもらい、
転院の話は個室で明るい部屋ならという事で了承したものの、
やはりこの病院で診てほしいと切実に訴えた。


希望が100パーセント通らないのはわかってはいた。
でも、コチラの要望がすべて却下されたまま話が進み、
特に連絡や確認がなく、
強制的に決定されたのが非常に腹立たしかった。


強制的に決定するのであれば…
あの話し合いは何だったのか。
何のために何度も希望を聞いてきたのかわからない。


主治医『転院の調整は、医師同士でするのではなく、地域連携という部署がするんです。僕のほうにも昨日夜メールが来ていて、先ほどの話とまったく同じ内容が書かれていました。家族さんがとても怒っているので、そちらで何とかしてくださいと。。病院と家族さんの間に立ち、パイプラインの存在であるはずの彼らが機能していないので、正直困っています』


何と言われようと、
転院先の病院へは、もはや不信感しかない。


この病院の主治医であるあなたに最期まで診てほしい。
転院先の医師はちゃんと見てくれるのだろうか??
転院の話がきちんと伝達できていないのに、
カルテの引継ぎなどきちんとできるのか??


何とかこの病院で置いてもらえないか、
他のフロアでの療養は無理なのか、
緩和ケア病棟へ置いてもらえないのか・・・・、


何度も、何度も何度も何度も頭を下げ、お願いし続けた。


それでも・・・話し合いは平行線のままだった。
転院の申請をだしてしまった以上、
覆すことは出来ず、強制的に転院を余儀なくされた。


父『せめて・・・せめて、9月11日まで延期させてください・・・』


9月9日、10日に二人の姉たちが先にやってくる日。
最後の頼みだから、と二人で頭を下げ続け
主治医は、なんとか調整してみますと返事をしてくれた。


こうして、母の転院の延期(9/7→9/11)は決定した。
精神的に、本当に限界だった。



page5へつづく。







         


師長『〇〇さん、この度は転院の件で病院同士の連携不足によりご迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ございませんでした』


私『あ、、いえ。でも、希望していた個室には数日すれば移動できるんですよね??』


師長『…それが…』


※ここからは、8月下旬の話に遡ります※
≪前病院にて≫
父『転院しなければならない理由はわかりました。ですが、こちらとしても譲れない条件があるんです。明るい部屋で、個室を強く希望します。』


前主治医『個室でなければならない理由は?』


父『妻は、周りに対してとても気を遣うのです。喋れないし、筆談でしかコミュニケーションの方法がない。奄美の親戚が来た時に、相部屋だと狭い上に同室のかたに気を使うんですよ。同じ患者同士、しんどくて寝てるのに、騒がしくすれば気を悪くするじゃないですか?』


前主治医『はい』


父『この9月の連休に、奄美から親戚たちがスケジュールを調整し来てくれるんです。誰に気を使うことなく、時間の許す限り会わせてやりたいんです。妻にはもう、時間はあまり残ってないんでしょう…?』


前主治医『…お気持ちはよくわかりました。転院日程はまだ決まっていないのですが、9月に入ってからになると思います。受け入れ先の病院へ希望を出しておきますね』


父『…わかりました。都合をつけるためにも、なるべく余裕をもって早めに知らせてくださいね。』





数日後のある日。
夕方、母の病室で面会を楽しんでいると
ふたりの職員がやってきた。


地域連携『こんにちは、転院の件でお話があるのですが。ご家族さんですか?』


私『はい、そうです。転院の話ですね?』



ふたりの職員は、転院について希望はありますか?と聞いてきた。
おかしいな、前主治医に父からすべて話したはずなのに。
確認の意味でもう一度って事なのかな。
めんどくさ…


私『個室で明るい部屋なら、問題ないんですけど…』


連日のようにせん妄症に打ちのめされていたため、
早く出て行って欲しくて、簡潔に伝えた。


地域連携『わかりました。それでは今日、受け入れ先の病院へ申請書出しておきますね』


私『宜しくお願いします』


二人は、入室時間5分も居なかった。





それからさらに数日後。
登録外の番号から、私宛に着信が入った。


地域連携『地域連携と申しますが。今お電話宜しいでしょうか?』


私『あっはい!』


地域連携『転院の日程なんですが、9月7日になりそうなのです。都合は…』


私『えっ3日後!?』


地域連携『はい。この日で移動できそうなら、受け入れ先の病院へ返事します』


私『ちょ、ちょっと待ってください…7日で決定なんですか?!』


地域連携『そうですね、ほぼ決まりのようですが…』


私『9月に入ったら、とは聞いてましたけど、9月の連休に奄美の親戚たちが来るんで…あ、でも個室なら大丈夫かなぁ…あ!祖母の施設から施設への移動と被るかもしれないんです。父に確認しないと行けないので、明日のお返事ではだめですか?』


地域連携『んー、ちょっと困りますね…』


私『いや、困ってるのはコチラなんですけど…取り敢えず、この電話を切ったあと、すぐに父へ確認をします。何時までいらっしゃるんですか?』


地域連携『5時までです。直通の番号へかけてもらえないですか?』


私『今、病室を出てエレベーターホールに居るので…一旦戻ります』


地域連携『ああ、病室にいらっしゃるんですね。これから向かいますね』


私『あーはい、ではお待ちしてます』



父に確認後、祖母の移動日は1日ずらせる事が出来たため、
ひとまず7日で返事をするという事で父との話はまとまった。


地域連携の人は、5時半を過ぎても来なかったので、
父が面会交代に来てくれたため、
私も会社に戻りたまっている仕事を片付けた。


私が病室を出て数分後、
入れ違いで地域連携の担当者が来たようだった。
私とするはずだった話を、代わりに父が対応してくれた。


その夜、
父は項垂れながら帰宅することになる。



page4へつづく。






救急車の中。


母の心電図モニター音だけが静かに鳴り響く中、
救急車は目的地へ移動し始めました。


母は、キョロキョロと目だけを動かし、
やがて私へ視線を向けました。


私は母の体に手を置いて、静かに語り掛けました。


私『雨降るかなって心配だったけど、少し晴れてきたね』
母『・・・・・』
私『今ね、堤防沿いを走ってるよ。右側が海なんやけど・・・見えないね(笑)』
母『・・・・・』
私『あっもうすぐ、オークワ(スーパーの名前)の前を通過するよ』
母『・・・・・』
私『トンネルはいったよ。もうすぐ、病院着くよ』


母は、いつのまにか目を閉じていた。
私『せっかくのお出かけやのに~(笑)寝てたら勿体ないで!』
少し冗談ぽく言ったが、それでも母は軽く目を閉じたままだった。


病院へ到着するまでの約15分間、警報アラームが鳴り響くことなく
無事にHCUへ入室完了。


看護師長『こんにちは、家族さんですか?』
私『はい、そうです』
看護師長『これから人工呼吸器のセッティングに入りますので、ご家族さんはデイルームでお待ちください』
私『あ・・・わかりました』
母『・・・・・・』



母は、不安そうに私を見ている。


私『おかーさん、また、あとでね!』


手を振り、1人デイルームで待つ。
他の家族さんが、楽しそうに食事をしながらの、にぎやかな環境。
私は、落ち着かずため息ばかりが出る。


しばらくして、父が来た。
2人で、看護師さんの呼出を待っていると・・・
先ほどの師長さんがやってきてくれた。


看護師長『お待たせして申し訳ありません。ご挨拶が遅くなりました、私は看護師長の○○と申します。準備が整いましたので、どうぞこちらへお入りください。HCUの面会時間やルールなどは、担当看護師から後ほどお話しさせていただきますね』


言われるがまま、案内された部屋は・・・
カーテンで仕切られた、
4区画分の1スペースのみ。



さらに、人工呼吸器&心電図モニター&支柱台(点滴)をベッドサイドへ置いてるので
本当にせまく、ロッカーがあるのに目の前に人工呼吸器を置かれていたため
ロッカーを使用するのは困難だった。


父&私『・・・・・・』


しょうがないので、オムツやタオルなどを
窓の冊子部分へ置いた。
置けない分については、車へ引き上げることにした。


お向かいのベッドには、酸素マスクをつけたおばあさんが1名のみ。
時折、唸り声をあげていた。
声が言葉にならないような感じで、とにかく声が大きい。


HCU常駐看護師たちは、とにかく慌ただしい。
ファイルを投げ落とす音、ゴミを捨てる音などの物音がとても気になる。
言動が荒いのが目立つ。処置も雑。声かけもほぼない。
前病院に比べれば、レベルの低さが浮き彫りになるほどだった。


こんな、落ち着かない場所に母を・・・・?
どうやって療養しろと・・・・?


言いたいことは沢山あったが、父も私も言葉を飲み込み、
これからお世話になります、と頭を下げた。


父は、どうしても片づけなければならない仕事があるので、
一度会社に戻ると言い、
私は母の容態が落ち着くまで傍に居るようにした。


父が『また、夜来るから』と手を振った。
母も手を振ったが・・・・その時の表情が何とも言えず、
父も泣く泣く病室を後にした。


『・・・・どうして個室じゃないの・・・・・?』


母が手を振った時、そんな表情だった。


ほどなくして、医療事務の方が挨拶にきてくださり、
病院のパンフレットと入院するにあたっての同意書を持ってきた。


その後、私はつとめて明るくおかーさんに話しかけていたが、
カーテンの外の声のほうが大きく、私の声がかき消されてしまい・・・、
母は『聴こえない』と何度も耳を傾けてくれた。


私は筆談で母と会話しようと試みるが、
母は、筆談をする元気がなく、筆談を拒まれた。


母の前病院での容態を問診するべく、看護師がやってきた。
担当看護師は挨拶もせず、名乗りもせず、愛想もなく、
ただ言われた事だけをもくもくとこなすような人。
そして、ミスが多いのか同僚に怒られているのが目立った。


『こんな人が担当なんだ・・・・』


思ってはいけないことは百も承知だが、
ただでさえ転院のことで頭を悩ませていたのに、
この看護師の存在で余計な心配事がまた増えた。


部屋は太陽の光が良く入る、明るい部屋だった。
病室は確かにきれいである・・・・が、
こんな落ち着かない場所では、
母の容態はさらに悪化するんじゃないか・・・と
不安をぬぐいきれずにいた。


そして、看護師長がまた訪ねて来てくれて、
少し話がしたいと言われたので、
母に『ちょっと席はずすね』と伝え、
師長と、地域連携部署?の2名と共に、会議室へ入室した。


page3へつづく。












9月11日(月)。


さて。転院するまでに
イロイロ(割愛部分=後ほど内容を記載)ありすぎて
精神が何度も崩壊しそうになりましたが、

母含め私たち家族は、
新しい病院でお世話になる事に腹をくくり、
朝9時半過ぎに病院を出発、10時前に新病院へと到着しました。


前病院の個室に設置した、時計とカレンダー。
時計横には身代わり地蔵様を置いています。
DSC_0555
奄美の親戚たちが心を込めて作った、千羽鶴。
DSC_0557
せん妄症の抑制になればと思い、
奄美の景色や大好きな姉たち、シマリスの写真。
DSC_0554
他には、母のメガネ、筆談用のバインダーノート。
キイロイトリやお守りががついた、母のカバン。
奄美の景色が映った、小さなアルバム。
塗り薬、口腔ケアなどの薬品類。
糖鎖パウダー。紙おむつ。。。


これらは当日まで片づけず、置いておいたので
朝8時前に病室へ向かい、すべて片づけました。


心配だった母の容態は、呼吸回数は平均より多く
血圧は若干高めではあるものの・・・ひとまず安定していました。

熱を測ると、36.8℃。
顔色は比較的良かったので、話しかけました。


私『昨日、よく眠れた??』
母『・・・眠れてない(笑)』
私『あ、そうなんか。私も実は、あんまり寝れてない(笑)』


睡眠不足の翌日は、せん妄症が出やすかったのですが
受け答えがしっかりできているので、特にひどくはありませんでした。


それでもどこか落ち着かない様子で、
心細いのか、不安なのか、やっぱり転院したくないのか・・・
頻繁にナースコールを呼び、


母『体の向きをまっすぐにしてください』


と何度も頼んでいました。
看護師さんも私も、


『からだ、まっすぐやで??』


と伝えたのですが、母的には体がゆがんだ感覚になっているようで
首を振っていました。


ひとまず、言う通りに体を動かしてあげると
母は『ありがとう』とお礼を言いました。


リハビリの先生が封筒を持って、ご挨拶にきてくれました。


理学療法士『○○さん!向こうでリハビリ頑張って、呼吸器が外れて歩けるようになったら・・・ココ(入院していた病院)まで歩いてきてよ!(笑)点滴付けながらね!タクシー使ったらアカンよ!(笑)僕ら、待ってるから!』


先生は、最後までスパルタでした(笑)
でも、この激励が一番嬉しかった言葉でした。


リハビリメニューを書いた封書を父に渡し、
『引継ぎが書いてあります。向こうの先生に渡してくださいね』
言付かりました。


9時前。


看護師さんたちが慌ただしく到着、
呼吸器の最終チェックや、カテーテルの交換、チェックなどをし、
点滴を付け替え、出発直前まで慌ただしさは消えませんでした。


・・・・早めに来て、荷物まとめておいて正解でした(苦笑)


9時半過ぎ。
病棟医と救急隊員がストレッチャーを用意し病室前に到着。


続々と看護スタッフが集まってきて、
病室を出る前にお見送りをしてくれました。


父も私も、涙を堪えながら、・・・・
父の心境はわかりませんが、
私の、このときの涙の理由は、お見送りで感激したからではなく・・・
完治しないまま病院を出て行く事の悔しさのほうが勝っていました。


『今まで本当にお世話になりました』


と見送ってくれた看護師さんたちに頭を下げ、
ナースステーション入口にも挨拶をし、
エレベーターを降り、
救急車には病棟医と私が同乗、
父は、車で病院へ追いかけてくれました。


page2へつづく。










こんばんは

いつも拝読ありがとうございます

転院初日のこの日、
またしてもトラブルが起こりやがりました

最悪の想定をしていたのが、
現実のものとなりましました

あっ誤解のないように先に書いておきますが
母の容態が急変したということではありません

転院は無事に…滞りなく済みました

とにかくもう、
マトモな思考回路ではないです

明日、マトモならSEASON3 page1を執筆しようと思います

おつかれさまでした

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月10日(日)
糖鎖パウダー投与14日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37℃台、表情は比較的やわらかい。
オシッコは、頻尿に戻ってしまった。
特別な治療は、10分x3回おこなった。
夜は、眠れなかった様子。
母はしっかりと答えていた。
寝不足がやや心配ではあるものの、
せん妄症は、ひとまず落ち着いたようである。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


奄美から、2人の姐さんがやってきて二日目の今日。


母の様子は、少々微熱気味ではあるものの
姉たちに弱っているところを見せられないと気を強く持っているのか
私と居るときのような脱力感・倦怠感な表情ではなく
むしろ心配になるほどの元気っぷりを発揮していた。


姉たちが滞在中、母は姉たちの体を心配していた。


遠方から来てくれているのだし、
長旅で疲れているのではないかと。


病室に長居していても体が休まらないだろうから、
家でゆっくりしてほしい、と筆談で何度か書いてあった。


しかし、頑なに姉たちは帰ろうとしなかった。
時間の許す限り、傍に居たいのだという。
明日には、奄美へ帰ってしまうからだ。


私は、母は姉たちに対する気遣いの気持ちは本物ではあるものの、
自分の弱っているところを見せたがらない性格なので
少し休みたくて、1人になりたいんじゃないか?と思った。


家族にしても大好きな姉たちにしても、
誰かが病室に居れば、気を遣う。それが母なのだ。
おちおち、寝ていられないはずである。


明日は転院の日だし、無理をさせて高熱が出た・・・
なんてことにもなりかねない。


かと言って、なんとか都合をつけて来てくれた母の姉たちの
気持ちも無下にもできない。


どちらの気持ちも分かるがゆえに、口を出すのを止めた。
結果、母が折れた(笑)


明日は、主治医が同伴で移動車に乗り込み、
私も同乗し、父は車で追いかける手筈になっている。


約5か月ぶりの外出。
短かったようで、ものすごく長く感じた入院生活。


人工呼吸器の離脱が難しいほどまでに
容体は悪化したまま、転院の日を迎えることになってしまったが、
これが今の医療の現実である。


どこの病院も、長期入院は歓迎されないみたいだ。
患者をなるべく退院させ、ベッドの回転率を上げなければ
病院の利益が下がる、と何かのサイトに書いてあった。


・・・そっか。そうなんだぁ。
もう、治る見込みのない患者は出て行けってことなのね。


医者も看護師も、精いっぱいやってくれた。
でも、結果駄目だった。


これが、大きな病院の後始末なんですね。
なんて冷たいんでしょうか。


母が入院できたのは、
以前入院されていたかたが退院したから。


そんなこと、わかってます。
そのかたがどういう理由で退院したかは知りません。
病気が治って、退院できたのなら良かったですよね。


でも、母はまだ治っていないんです。
骨髄異形成症候群も、肺線維症も。


なのに、設備が対して整っていない病院へ移動させられるわけです。
古臭い病院じゃありません。
建て直したばかりなので、新しくてきれいな病院です。


でも、医師や看護師の人数が現病院に比べると
圧倒的に少ないのです。


緊急事態が起こった場合、
人手が足らないという理由でほったらかしにされるんでしょうか。


あんまりですよ。
母が、誰に、どんな迷惑をかけたっていうんですか。。。
こんな仕打ち、本当にひどすぎます。


歳をとり、大病を患ったとしても・・・・
病院をたらいまわしにされたあげく、
入院できる病院がないなら自宅で死ねということなんですね。


この先の医療に、明るい未来はない。
母を見ていると、そう思わざるを得ません。


最後まで診てもらえることなく、
格下の病院へ転院させられるんですから・・・


外に出たいと、空気を吸いたいと願い続けて
やっと明日、少しの時間ではあるけれど・・・
ようやく外に出れるよ、おかーさん。


晴れたらいいね。転院しても、体調崩さないでね。
頑張っていこうね。


-SEASON3 page1-へつづく。





☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月9日(土)
糖鎖パウダー投与13日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は38℃台・・・解熱剤を入れたとの事。
オシッコの量が徐々に増えてきているようだった。
特別な治療は、10分x1回、
20分x1回おこなった。
夜は、少し眠れたようだったが
熱があってしんどそうだったので、
起こすことをせず、寝かせてあげた。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


今日は朝から良い天気。


洗濯物を片付け、奄美の姐さんたちが
泊まるのでお布団を干したり家の掃除を頑張った。


とにかくこの家の住人は(メソ夫婦除く)
掃除をしない('A`)!


なので、この家にはあらゆるところに
ホコリやカビルンルンが出現している。
yjimage[1]
こんな可愛らしくはないんですがね(笑)
グロ注意画像が多かったので、
無難なものを選びました( ;∀;)

まぁどこの家にもカビやホコリなんてあるのでしょうが、
それでも、限度ってもんがあると思うんです。。。


この家、築5年ほどになるのですが
ほとんど掃除をしていないっ!


特に水回り(キッチン・風呂・洗濯機・洗面台・トイレ)が
汚すぎてヤヴァイ!


私が時々訪れ、家政婦のように掃除をしていた時期もありましたが
それも新築1年ぐらいまでで、
私自身も仕事が増えて来て忙しくなってきたため、
掃除をする機会が減ったわけです。


この家に住み始めた7月は、
体中がかゆくてかゆくて地獄のようでした。。。


ようやく、念入りに掃除をし続けた結果
ホコリやカビを抑制することが出来・・・
薬を飲まずとも、体のかゆみは治まってきました。


お掃除って大事ですよね。
潔癖症ではないのですが、それでも人並みに掃除をしないと
健康を害する原因の一つになると思うんです。


父も弟も、風邪を引いているわけではないのに
年中咳をしています。


体の中に、徐々に蓄積して行ってるんでしょうねー
カビ菌が(´・ω・`)


母も、まだ病気になる前は頻繁に掃除をするタイプではなかったので
結構ほったらかしにしていたので、よく私に怒られていました。


私が母の代わりに掃除を定期的にしてあげれてれば、
こんな難しい病気にならずに済んだのかなぁ・・・


なぁんて思ったり。


専門医からすれば、特に関係はないと言われましたが
カビもホコリにも、少なからず菌は居る訳ですから
徐々に蓄積されれば、数年かけて毒されていくと思うのですよ。


いつか母が退院できたときに・・・と思い、
実家をこまめに掃除をしています。
汚れは溜まっていきますからね(・ε・`*)


掃除が終わったあとは、母へ会いに病院へ行きました。



page44へつづく。





(スマホから投稿)


今日、発言した母の言葉。


『髪の毛、切ってあげる。カミソリ持ってきて』

『目が見えない』

『聞こえるよ』

『しっかりしてるよ、大丈夫』

『メソメソ、泣くな』

『私に触らないで』

『置いて行くよ』

『また、シチュー作るわ』

『子供らにうどんあげる。おかーさんは、昼の残りでいいよ』

『ご飯のスイッチ』

『洗濯物、乾いてるはず』

『用事?ないよ』

『メソメソが居るから、安心』

『もう5時』

『そこ、誰かいる。また来た』

『男…女…知らん人』

『ずっとこっち見てる』

『メソメソ、危ないからもう帰り』

『おかーさんは大丈夫やから』

『またあした、おつかれ』


明日の夜は、念願の姉たちに会える日。



page43へつづく。



すみません、今日もスマホからの更新です…
ウチのネット環境、どしたんや(笑)


アップロードするにもローディングが長く、エラーになる始末。
それでもめげずに更新ボタンをタップし続けて、、、


そんな事するくらいなら早めに寝るべきですな(ノω`*)笑

さてー
本日の母の様子。

筆談で転院の話をし、母なりに理解してくれたようです。

むしろ、転院の事よりも
お風呂に入りたかった模様…

看護師さんの話では、
朝からずっとお風呂に入りたいと訴えているようで、筆談で何度もやりとりした形跡がありました(´・ω・`)

看護師さんも、母の気迫にタジタジ…

何とかうまく誤魔化しながら、
私が到着するまでの間、取り次いでくれたようです。

母は、私にも言いました。

母『これからお風呂に入ってくるね』

そう言いながら、パジャマのボタンを外し始めた。

私『え、これから?』
母『うんうん』
私『今日、入浴の予定なんて聞いてないけど?』
母『ひとりで入れるから大丈夫』

そう言って、笑顔でドアの方を指さす。

私『おかーさん、ここ病室だからこんなとこで服脱いだらあかんで。脱ぐなら、脱衣場で脱がなきゃ』
母『…?え、…お風呂、そこに…』
私『病室にお風呂ないよ!移動しないと!』

母の眉間にシワがより始める。

私『看護師さんのお手伝いがないと、おかーさん入れないよ?』
母『…入れるよ…』
私『…』
母『…』

母は、イライラした様子で
パジャマを引っ張り始める。

私は、母が外したボタンをとめた。

母『…ブツブツブツ…』

よく読み取れない口の動きだったので、
なんて言っているか理解できなかった。

私『おかーさん、しっかりしてよ!』
母『…しっかりしてるよ…』
私『…』
母『…ブツブツブツ…』

手を握っていたが、母の手が離れようとしたので強く掴んだが、もう片方の手で私の手を引き剥がそうとした。

私は、手を話すしかなかった。

看護師さんがちょくちょく様子を見に来てくれて、母に話しかけてくれた。

私に対する不機嫌な様子は全く無く、
『大丈夫』『ありがとう』とにこやかに対応していた。

看護師さんが退室すると、途端に無表情になり、白目を向きながらブツブツブツとクチや手を動かし、まるで母にしか見えない誰かと話している風にも見えた。

私『おかーさん、白目やめて!笑』

肩をゆすれば、すぐ黒目に戻る。

母『…何?』

イライラしながら私を見る。

私『今、誰と話してたの?』
母『おにーちゃん』

母は、9人兄弟の中で5番目の子供。
死別してしまったので今では4姉妹だが、
母の枕元に兄が居るらしい。

私『…おにーちゃんて、どんな人?』
母『そうやなぁ…ふつう。』
私『おにーちゃん、なんて言ってるの?』
母『何も言ってへん』
私『まだ居る?』
母『うん』

私には見えないけど、
母の傍に立っているであろう母の兄に手を合わせ、お願いをした。

私『まだ、母を連れて行かないでください。お願いします…』

願いは届くのか。
わかんないけど、母は私が退室するまでせん妄症は収まることはありませんでした。


昨夜は眠れなかったようなので、
今夜は薬の量を増やすようです。


page42へつづく。







家のネット環境が不調なので…
今回はスマホからの投稿です。

ひかりテレビ導入してから、どうもラグいんですよねー
それをひかりテレビの担当者に電話で言ったら、関係ないですよと一蹴(笑)

解約したらわかることやけどね。
ウチはイオ光契約してるんですが、
ひかりテレビはあとから契約しました。
それまでは問題なく使えてたのに、不思議ですなー

さて、本題。

転院の話、午前中に私のケータイへ連絡くるはずだったのが一切鳴らず。

午後、仕事が落ち着いたので病院へ行き、
ナースステーションで緩和ケアのスタッフを呼び出してもらい、主治医に『まだ転院の正式な返事が来ていない』と伝言を頼みました。

ほどなくして、主治医が病室に到着。
別室に移動し、説明を受けました。


日程は9月11日の月曜日。
朝10時、との事。
出発なのか、到着なのか。
よーわからん。

もう頭がぐわんぐわんしていて
主治医や看護師の顔をまともに見れず
話が終わったあとみっとも無く泣き崩れ
しばらく途方に暮れていました。

話が終わってから30分ほどして。
緩和ケアのスタッフが来てくれて、
私の心のわだかまりを聞いてくれました。

呼吸が苦しくて、
胃が痛いのかお腹なのか肺なのか
よくわからない部分が痛くて
意識が遠のいていくような感覚になったり
食欲はなく
気分が浮上せず
声を出すのも嫌で
とにかく母と一緒に居たくて。。。

いい歳したオトナが恥ずかしい、ですが
色んなことをコントロール出来なくなりました。

帰り道、横断歩道を渡ろうとしていた女性を危うく車で跳ねてしまうところでした。

幸い、事故にはならず…でした。

私は女性に対して頭を何度も下げ、
女性は特に怒る風でもなく、
軽く会釈をして渡って行きました。

しばらく、運転控えたほうがいいかもしれない。

運転が怖い



page41へつづく。





☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月5日(火)
糖鎖パウダー投与9日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37℃台・・・少し上がり始めた。
特別な治療は、私が離席することが多く
5分以内を3回程度しか行えず。。。
昨日頻繁に出ていた便は、
さほど出ていないようだった。
何か薬を使われたのかもしれない。
担当看護師に確認が取れずだった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



今日は!



母の同級生3名に面会へ来ていただきました❤
懐かしい思い出話に花が咲き、時間はあっという間に過ぎていき・・・


写真を眺めたりスマホで撮影したライブ演奏、
ハーモニカ実演もしていただきヾ(≧▽≦)ノ
奄美大島の貝殻のプレゼントまでしてくれました!



母は終始笑顔( ;∀;)。。。
やっぱ、友人たちの影響力は凄いなぁ。


少し体調が優れなくなってきたようなので、
面会時間は約30分で終了とさせていただきました。


本当はもう少し、時間の許せる限り居てもらいたかったです・・・



でもこの次は、母はもっと元気になっているハズ!?なので
その時までのお楽しみにしていただこうと思いました。



さて、母の転院のスケジュールが差し迫ってきました。


転院の主な理由としては、
現状、大学病院で可能な治療がないので、
治療が出来ない患者を置いておくスペースはないんですって。


・・ははっ
少し悪意のある書き方になってしまいました。
主治医の説明時、こういうストレートな言い方ではなかったですけどね。
分かりやすく言えばそう言う事です。


人工呼吸器を外し、自分の脚で歩けるくらいの体力が無ければ
抗がん剤を入れても耐えれないため、自殺行為になるのだそう。


念入りに説明をしてもらったので、
しぶしぶではありましたが納得しました。

悔しい気持ちはありました。
でも、リハビリを頑張って
将来奇跡が起こると信じることにしました。


という理由から、現病院よりも
リハビリに特化した病院へ転院するよう、勧められていました。
明るい部屋で個室なら・・・と言う事で要望を伝え、了承しました。


日取りが9月7日で決定・・・しそうだったのですけど
信頼を裏切るような事態が起こったため、
転院の話を白紙に戻すよう、
病院側に強く抗議しました。



今日は転院の話で揉めに揉めたので、
母が入院してから今まで疲れなど感じた事なかったのですけど
ほんとに・・・本当に最高に疲れてしまいました。。。。


なので、この話の詳細は割愛させていただきます。。。
(書く気が起きたら書こうと思います)


書く馬力もないくらい、まじで疲れました。
ひとまず、明日ケータイへ連絡が来ることになっています。


体はとても疲れているのに、目がとても冴えています。。。
今夜は眠れそうもありません


はぁ、ほんとにこまった。
しぃま、たすけて。
おじーちゃん、チカラをかして。。。



page40へつづく。



※私信※
フォロワー様方々、いつも拝読ありがとうございます。
応援していただいてる身でありながら、
ブログ応援行けず申し訳ありません・・・
心と体が落ち着きましたらお返しさせていただきます。
いつも本当にありがとうございます。







☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月3日(日)
9月4日(月)
糖鎖パウダー投与7~8日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は36℃代までさがった!
特別な治療はモード3で20分x2回行った。
最近、便がよく出るようになった。
栄養補給はもっぱら点滴なので、
固形ではない。(食事中の方スミマセン)
糖鎖の効果が表れ始めたのか・・・?
引き続き様子を見ます。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


やっと完成しましたーーーー


特大ウナギ寿司クッション❤
DSC_0549
・・・ウナギに見えますか!?(;'∀')

一応・・・モデルはこの子なんですよ。
worldsealine_au-b01c6wyjjm[1]
手と顔はつけてませんが(笑)



見よう見まねでやっちゃいました。


しかも製作期間2日!!!


ミシン縫いなんて高度なスキルは持ち合わせていないので
手縫いで頑張りました((((


ウナギ部分は綿を詰め込み、
シャリ部分はビーズを敷き詰めました。


ふー、なんとかなるもんですね^^;
母はとても喜んでくれました。



私『ね、これ何に見える??』
母『ウナギ!!!』



そういって、食べるしぐさをしてくれた母。


枕にするには高すぎて首がしんどいので
肘置きか抱き枕として使ってもらうようにしました。




入院生活のお供として、またお守りとして
傍においてもらおうと思います。



page39へつづく。










主治医『治療は、この先難しいです・・・・』


医師からの通告を受けてから、
父もまた、眠れない夜が続いていた。


母の病気をどうしても諦めたくなくて、
何か良い方法が無いか、日々ずっと考えていた。



父『・・・・』
yjimage[6]
父には弟が居て、弟は結婚しているので
私との関係は『叔父夫婦』にあたる。


父は、叔父夫婦によく相談をしているようだった。


話は少し遡るが、
母の病気が発覚し、今の病院へ入院すると決めたとき
叔父夫婦はとても反対していた。


理由はいくつかある。


☆すぐに手術をしたがる。
☆若い医師が多いので、頼りにならない。
☆患者を研究材料(臨床)として見ている傾向がある。
☆健康よりも、金儲けの事を優先で考えている。
☆名誉教授が居るような、有名な病院ではない。



などだった。
つまり、母が入院している病院をとても嫌っているようだった。
・・・過去に病院との間で何があったのかはしらないが。


それでも母は母なりに考え、
今の病院へ入院することを自分で決めた。
会社からも近いし、みんなに会える。
ただ、それだけの理由で決めた。


医師のキャリアがどうこうとか、
治療方針などは・・・・
そういうのは母にとって特に重要な問題ではなかったようだ。


母『遠くは嫌や。近くがいい』


母自身の病気の事だし、私も遠く離れるのは嫌だったので
本人の意思を尊重したくて・・・・
そうしようと、家族みな納得済みだった。
叔父夫婦はずっと反対し続けていたが、押し切った。


マルトフィリアに感染した経緯も、
人工呼吸器をつけなければならなくなったことも、
黄疸が出て、人工透析を余儀なくされたことも
母が医療の終末期を迎え始めていることも、
すべて今の病院に入院したからだ、と
叔父夫婦は父を責めた。


”あの病院じゃなければ”


”義姉さんはあの病院に殺されるんや”


”だから最初から反対だったのに”

”止めなかった兄貴のせいやで”








勝手なことを言うなよ!



私は、声を大大大にして叫びたい。

ねえ、叔父さん。叔母さん。

母が病気になって、何度面会に来た?

仕事が忙しい?
時間がなかなかつくれない?
体調が良くない??
それで、何回面会きたの?
母とどんな話をした?できた?
主治医や医療チームの話をどこまで理解してる?
てゆか、母の経緯もよくわからんくせにそんなこと言えるよね?
主治医の誠実さとか一生懸命さとか。
母にとってどの治療が最善なのかとか。
看護チームも、母が不安がらないように手厚く対応してくれてるよ?


この病院を選んだおかーさんを責めないで!!
同意したおとーさんを責めないでよ!!
他の病院だったら、
もっと早く別れてたかもしれんやん!!



・・・叔父夫婦には、面と向かって言ってない。
言えるわけがない。


叔父も叔母も、


母がとても大好きで、
病気に負けてほしくなくて、
とても感謝してくれているからこその
必死な気持ちだってことは理解している。



行きつく先は、言葉は違えど想いは同じ。


父は、弟夫婦の気持ちを汲み、黙って言い分を聞いている。
なんて自分たちは無力なんだ。
医者に任せるしかできない。
他にできることは・・・・?


母の傍にいて、不安な気持ちを取り除いてあげる事。
それぐらいしか思い浮かばない。


父は、セカンドオピニオンを思い立ち
主治医に時間をもらって面談をし、カルテを準備してもらった。
受け入れ先が見つからなくても良い。。。
とにかく行動を起こしたかったようだ。


私は、父のセカンドオピニオンをサポートするつもりだ。
それで、母が助かるなら。
それで、父の想いが叶うなら。


一緒に頑張ろう、おとーさん。おかーさん。



page38へつづく。











☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月2日(土)
糖鎖パウダー投与6日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37.6℃。
担当看護師が誰かわからなかったので
睡眠管理や変化など、聞けずじまいだった。
特別な治療はモード3で15分x2回行った。
治療中眠ることはなく、誕生日プレゼントの
知恵の輪で遊び、さらにオセロゲームをして
楽しんだ。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
image[2]
朝からLINEコールの嵐!



この日は、母の誕生日だったからである。



メンバー全員、母が誕生日を迎えられたことを祝福してくれた。


母は今日、作業療法(タブレット使用)が休みだったので
自身でLINEの確認が出来ていなかった。


弟が午前中病室へ赴き、
タブレットを見せて母に読んでもらい、
代わりにタイピングをして返事を返していた。



旦那と私は、昼から向かった。
せん妄症の気配は全くなく!
いつもの母の表情でひとまず安心( ;∀;)
旦那が母の誕生日にと、購入してくれていたオシャレな知恵の輪。



肩は上げられないけど肘は上がるので、
これなら寝ながらでも退屈しのぎになるだろう、と選んでくれた。




私は・・・・・、



母のプレゼント
何一つ用意
してない!!( ゚Д゚)




誕生日だって知ってたのに、
プレゼントにまで頭が回らなかったー・・・・


今からでも遅くはない!と思いなおし←いや、遅いヨ


何にしようか考えた。


・・・・そうだ。
お寿司クッションにしよう!
しかもウナギ❤



母の大好きなウナギのお寿司。
誕生日に、お寿司屋さんでウナギをたくさん食べたいと
目を輝かせながら話してくれていた。


病院の所有物である(薄汚い)クッションより
ウナギやマグロと言った、母の大好物の
お寿司クッションを置いてあげる方が
喜ぶんじゃないか・・・と考えた。


早速ヤフーショッピングを物色。。。



私『!!( ゚Д゚)』


あったあった、ありましたーお寿司クッション!
しかもウナギバージョン!
worldsealine_au-b01c6wyjjm[1]
お値段、15100円・・・
輸入商品(アメリカ産)の為、注文後約1か月かかる・・・だと!?



あーだめだめ・・・



遅いうえに高い!!


んー、どうしよう^^;







いっそ自分で作るか!!?(>_<)
家庭科の成績
『1』のこの私が!!!





とりあえず、私よりはるかに器用でセンスのある旦那に相談してみた。



旦那『んーーーー!!どやろ!?』
私『・・・無謀かなぁ・・・でも、作ってみたい』
旦那『・・・作ったことないけど、やってみるか!!』





という訳で、母へ見舞いに行ったあと
ホームセンターへ買い出しに行くことに♪


シャリ部分はビーズクッション、
ウナギ部分は綿素材でひとまず案を立てた。


ブログを書き終わったこの後、作ってみようと思います・・・!
旦那に助けてもらいながらだからまぁ
下手なものは出来ないだろうけど
こういうのは気持ちが大事だよねっ☆てことで
なるべく急ぎつつ、制作にとりかかってみまーす('◇')ゞ



☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
母が『今日5時ごろ外出したい。
空気を吸ってみたい。外出許可は
おりますか?』とメモで訪ねてきた。
私は筆談で『外出するには長時間車いすに
座り続けなければならないのと、人工呼吸器を
付けているので医師の同伴が必ず必要になるんよ。
だから、外出させてあげられなくてごめんね』と
返事をした。母は、少し寂しそうな表情で
指でオッケーサインを出した。私は胸が苦しくなった。
誕生日なのに、また我慢させてしまった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★




page37へつづく。










☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
9月1日(金)
糖鎖パウダー投与5日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37℃台をキープ。
昨日の夜は数時間眠れたようで、
午前中のみ、比較的せん妄症は
落ち着いていたと報告。
糖鎖摂取量を増やしてもらおうと、
今までは昼のみだったが、
朝・昼・夜と回数を増やしてもらうよう
相談をした。
特別な治療はモード3で15分x2回行った。
特に目立つ行動はなく、おとなしく寝ていた。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
yjimageZML1QZ7A

8月31日。
急性骨髄性白血病に移行した可能性がある、と電話を受けて
その日の面会の時の事。



目をあいているのか、いないのか。


白目なのか、黒目なのか。


うつろな表情で、時々笑っていて。


かとおもえば、眉間にしわをよせ、
しきりにタオルケットをちぎろうとする。


ナースコールを探すようなそぶり。
握らせると、途端に放り投げる。


手を握ろうとすれば、
嫌がり私に暴言を吐くかのような表情で
モゴモゴと口を動かしている。


白目をむいて、天井をつかむかのように手を伸ばし・・・
それから、人工呼吸器の管を力の限り引っ張ろうとした。


私『・・・・おかあさん!!!』


母『・・・・・、・・・・・・。・・・・・』


私『そんなことしちゃだめ!おかーさん、しっかりしてよ!!!』


母は、私に視線をうつした。
表情は変わらない。
生気のない、眼。
私は両手で包み込むように手を握りながら、懸命に訴えた。


私『おかーさん!!おかーさんてば!!!しっかりしてよ!!!もっと、もっとしっかりして!!!!病気治すんでしょう!!!?心配するやんか!!!!みんな、おかーさんの事応援してるねんで!?』


母『・・・・・・ボソボソボソ』



私は母の前で泣いた。
しちゃいけないことなのに。
これじゃ、母に誤解させてしまうのに。
涙、どうやったら止まるんやろう。。。。


いつからか、母の目に色が戻っていた。


母『・・・・だいじょうぶやで』
私『・・・・・、大丈夫なん・・・・?』
母『だいじょうぶ、ぜったいなおるよ。しっかりしてるよ?』
私『・・・・・・・・』




母は、おいでというように両手を広げた。
私は、母のお腹の上に頭をうずめた。


私『・・・・おかーさん、おかあさん・・・・!!お願いやから、元気になってよ・・・・』


私の頭を、ぽんぽんとしてくれた。


母『・・・・おかーさんはぜったい、だいじょうぶ。だから、なくな』


私『・・・しっかりせなアカンのは私のほうやな。泣いてしもてごめんね。おかーさんのほうがしっかりしてるわ・・・』


母はこのときだけ、いつもの母に戻った。
私の顔をよく見ながら、微笑んでくれた。
ピースもしてくれた。


良かった、おかーさんだ。


私が泣き止むのを確認した母は、また眠りについた。
私は、決意を新たにする。



最期まで、絶対あきらめない!





page36へつづく。





☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
8月31日(木)
糖鎖パウダー投与4日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
熱は37.4℃だったが・・・
せん妄症が酷く、意識がはっきりとしない。
特別な治療を15分実行しようとしたが、
数分後に異変が起こる。
クチを大きく開けて叫んでいる様子であったり
ナースコールを投げつけたり、
体を掻きむしるなどの行為に
及ぶなどしたため、途中で断念。
この日は8分のみ治療をした。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


(つづき)
人工呼吸器をつけたままの、母の入浴方法。

ベッドごとの大移動なので、
通常の入浴方法ではなく、
ベッドからベッドへ体をスライドさせ、
お湯を張って入浴を楽しんでもらう方法。
文面ではイメージしづらいと思うので、
それに近い画像を貼り付けます。
yjimageNJILW1Q9
こういう立派なお風呂ではありませんでしたが、
横たわれるベッドがあり、お湯を溜め、
シャワーで流しながら丁寧に体の隅々を洗っていただきました。


裸になったのは母のみで、
看護スタッフと私はガウン&手袋を装着して母の体を磨いてあげました。


とれるとれる、たくさんの垢!
看護スタッフ3名、主治医1名の超過保護入浴!


真っ黒だったカラダは、みるみる本来の色になっていきました( ;∀;)


カラダじゅうのただれが酷かった皮膚。
アザになっているものの、キレイに傷口はふさがっていました。


母は本当に幸せそうだった。


お風呂は命の洗濯


。。。なぁんて何かのアニメで言ってたっけ。
yjimage560AICRK
うん、この人だな(笑)


準備から完了までおよそ1時間程度かかり、
特に容態が急変することもなく無事終了!


入浴後病室にて、手足の爪を切っていただきました。


母の顔が少々赤らんでおり、
熱が上昇したのか不安だったので測ってみた。



36.7℃!!!!



意外と下がってて安心(;´Д`A ```


母はここ数日眠れていないらしく、
せん妄症がどんどん酷くなっていた。


その夜、せん妄症を抑える薬を投与されたが・・・
それでも、眠ることはなかったと翌日報告を受けた。


母が眠れない。
白目を向いて、ボーっとしていることが増えた。
時々笑っている。
ナースコールを持ってくれない。押してもくれない。
眉間にしわがより、何を言っているのかもうわからない。


入浴から翌日、主治医より電話を受けた。



『白血球の数値が2万を超えています。詳しく検査をしていないので断定はできませんが、恐らく急性骨髄性白血病に移行しているかと。このまま病状が悪化すれば高熱が続き、体がもちません。治療のための抗がん剤ではなく、緩和のための抗がん剤を投与したいのですが・・・


と打診を受けた。


『・・・・はい、お願いします・・・・』


私は、力なく答えた。



page35へつづく。







☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
8月30日(水)
糖鎖パウダー投与3日目。
昼の投薬と共に小さじ1杯分を注入。
昼1時ごろ熱が38.3℃あり、
特別な治療を15分間やり終えたのち
37.7℃まで下がる。
入浴後、さらに体温は36.7度まで下がった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


沢山のタオルを抱え、病室に到着。
今日は、母の入浴日。
yjimage9J0ZJLYK
熱が何度あるのかとても気になっていたので、
早速体温を測った。


38.3℃!!!?


母が『もう一度』と言ったので
リセットしてもう一度計測・・・・


38.4℃!!!!


れ、レイテンイチド増えちゃったよママン。。。。


母はものすごくがっかりした。
お風呂に入れないかもしれない。
私はすぐさま、特別な治療の準備にとりかかり
モード3で15分間おこなった。



私『・・・よし。もう一度はかってみよう。』
母『(ゴクリ)』



37.7℃!!!!



やった!
少しだけ下がった!!
でもまだ熱は高いほうだよなぁ・・・・・(´・ω・`)


どうなんだろう、入浴できるのかなぁ。。。
と、担当の看護師さんが来てくれた。
熱がある事を報告した。


看護師『あぁ・・午前中と変わらないですねぇ;どうしようかなぁ・・・』
私『母は入る気マンマンなので、可能なら・・・』
看護師『ですよねー・・・とても楽しみにしてましたもんね』
母『・・・・・・(じっとみつめている)』
看護師『お熱が高いのが心配なんですけど、気合で入っちゃいますか!先生も付き添いしてくれますし!!』
私『ありがとうございます!!m(_ _"m)』


というわけで、ベッドごとの大移動が始まった。
酸素ボンベを2本?準備、移動用の人工呼吸器に切り替え、
痰吸引用のタンク、お風呂セット、体重計、もろもろもろ・・・


12Fへ移動し、海が見える景色の良い、明るい入浴場へ到着。
母は初めて見る景色に目を輝かせていた( *´艸`)





すみません、今日は疲れたのでここまでとさせていただきます(;´Д`)
続きは後日で!中途半端ですみませんです。
拝読ありがとうございました┏○))ペコ



page34へつづく。












☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
8月29日(火)
糖鎖パウダー投与2日目。
熱は36.6度まで下がった。
しかし、汗をかき続けている。
少々ウトウト気味ではあるものの
本を読む、アルバムをみるなどして
昼寝をせず、夜寝るように睡眠管理を
頑張ると私に筆談で宣言。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
yjimage01K9FNR6


さて、表題の件。
少々オーバー目に書いてしまいました、スミマセン(笑)


でも、あながち嘘ではありません。
私にしかできない治療の許可を、主治医にいただきました。


特別な治療とは、手術でも、投薬でも、マッサージでも
リハビリでも・・・何モノでもありません。


詳しい内容は後日公開とさせていただきますが
実施してから今日で6日目となります。


メニューは私が決めたのではなく、
始める前に回数を母に決めてもらい、
医療的処置以外の時間にさせてもらっています。



初日は5分程度行いました。
2日目は、10分x1回。
3日目は、10分x2回。
4日目は、10分x3回。
5日目は、10分x3回。


そして本日6日目は、15分x2回。


5日目の日、本当は10分x4回やりたいと
母が希望していましたが
医師や看護師の出入りが特に多かった日だったので
途中で中断せざるを得ず、
4回目は断念しました。


特別な治療中は、眠くなることが多く
リラックスしながら受けてくれています。


気分がノッてるときなどは、
手首を捻るなどした沖縄的民族舞踏??を踊ったりしています。


さらに、治療中に限りですが咳の回数が減っています。
頻尿気味だった状態が、尿の量が増えてきました。


今日も治療中はウトウトしていたものの、
筆談で沢山おしゃべりをしました。


体の事、明日のお風呂の事、友人の事、家族の事。


無菌室時代に購入した、帽子をかぶりたいと言ったので、
かぶせてあげました。


顔がつややかになっていて、
とても良い笑顔をみせてくれました♪
DSC_0540


明日は念願の入浴の日。
熱が上がりませんように!!





page33へつづく。






☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★
8月28日(月)
糖鎖パウダー投与1日目。
お昼の薬投与時小さじ1杯経管にて摂取。
嘔吐することはなく、問題なく摂取できた模様。
投与する前は熱は37度だったが、
夕方16時ごろには38度6分まで上昇。
体内の中で、糖鎖とがんが戦っているのか?
ステロイド投与、経過を観察中。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

yjimage[3]

緩和ケアを視野に入れるように、との話から数日経った現在。
毎夜ではないが、夜、眠れないときがある。



スマホの検索バーに
『モルヒネ』『緩和ケア』を入力し
明け方までサイトを見続けることが増えた。



色々考えさせられた。


正直、モルヒネや緩和ケアと聞くと
良いイメージなど皆無なわけで・・・
前記事にも書いたが、



『生きることを諦めてください』



と、案に言われているような気がして、
消えてしまいたい気持ちでたまらないほど辛かった。


でも、サイトに書かれていることは真逆だった。


・・・・うーん、真逆ってわけでもないんだろうけど。
うまく書けないな。


とあるサイトには
モルヒネは最高の鎮痛剤であると書かれていた。


傷みや苦痛をやわらげることにより、
患者の病状によって延命期間は様々なようだが
早くて数時間、最長で6か月生きた人も居るらしい。


モルヒネを使ったからと言って
死期が早まるものでもないようだ。

これには目からウロコだった。


ある意味麻薬的な存在だと思っていたし、
モルヒネを使えば、錯乱状態となり
誰も何もかもわからなくなる、と思い込んでいた。


使い方を間違えば・・・という記述をよく目にした。
痛みを感じなくなるくらいの量を投与する、という
意味なのだろうか?


欧米では早期段階でモルヒネを投与し
患者の寿命が延びているという研究結果もでているようだった。


日本人は我慢強い人が多く、
モルヒネの使用を拒む人が多いのだとか。


今年6月に乳がんでご逝去された小林麻央さんも、
モルヒネ・・・ではなく、オキノーム(中度~高度痛みを抑制するオピオイド鎮痛剤)
を使用したと書かれていた。
※記述に誤りがあれば申訳ありません※


早期段階でオピオイド鎮痛剤を使用することにより
穏やかな最期を迎えられるとも書いていた。



痙攣が起き、皮膚を掻きむしり、苦しさは増す一方の
ただ死を待つだけ・・・の最期は誰だって嫌なものである。


オピオイドを使用すれば、意識が混沌となり、
眠るように息を引き取る人が多いらしい。



だったら、母にモルヒネを・・・と一瞬考えてしまった。



苦しくないのか?
痛くないのか?
辛くはないか・・・?



母はいつも『大丈夫』と即答し、
『ありがとう』と返事をする。



家族に『つらい』と言えば、家族を悲しませると思い
本音を言い出せずにいるんじゃないか?



あるいは、痛みや辛さはあるけど
耐えうるだけのメンタルがあり、
生きたいと強く願うから、大丈夫だと自己暗示をかけるように
返事をするのだろうか。



母の本音は、おそらく誰にもわからない。
本音を聞きづらい内容でもあるので、
母に確認することはおそらくないだろう。
娘の私でさえも、わからない。



page32へつづく。







母に渡した1冊のノート。


体調が良い時に、日記を書くなどして
記録するようにと伝えていた。


その日思ったコト。
治療の経過報告。
日々の体調の変化。
愚痴。
なんでもいいから、寝ているだけではもったいないので
手を動かすなどして、日中起きているようにと宿題をだしていた。


そのノートには主に熱が何度あったという記録しかなく、
ほとんど空白なページが多かった。


私『おかーさん!さぼりすぎ!笑』
母『・・・(ニコニコ♪)』



ノートではなく、一枚のメモにしっかりと書いているのを発見した。
DSC_0539
食べたい欲求を抑えられないらしい。


・・・・・・・無理もない。


5月5日から現在まで、クチから栄養を摂っていないのだから。


紙に書いたのは、これが初めてではない。
何度も何度も紙に書いて看護師や主治医にお願いするも、
人工呼吸器をつけているからという理由で
いつも答えは『NO』だった。


そのたびに、母の気持ちは殺されていたんだと思う。
強制的に『我慢』しなければならない。

そうしなければ、命の危険を伴うから。

お風呂にも入れてもらえていない。
人工呼吸器をつけているから。

ジンコウコキュウキヲ、ツケテイルカラ・・・・


せめて甘みだけでも感じてもらえるように
ポカリやいろはすのフルーツ味(りんごやみかん)を購入し
凍らせてもらい、アイスキャンディーのようにクチに含ませ、
糖分をクチから摂取していた。


しかし、それももう出来ない。。。


痰の色が悪くなり、肝臓の数値が徐々に悪化してきたからだ。
絶食することによって今は回復しつつあるが、
食事を摂ればまた肝臓の数値が悪くなるだけでなく、
誤嚥(ごえん)しかねない。


食べることは生きる事。


それを抑制されたら・・・・まともで居られるはずがない。
でも、母は食事を摂れない体になりつつある。
嚥下障害を伴うため、栄養は点滴へ切り替えたのだ。


母は決心し、先生に筆談で訴えた。


『熱が出てもいいから、おかゆと海苔をがっつり食べたいです!キムチも!お願いします!!』




”熱が出てもいいから”







その言葉に、先生は、母の気持ちを汲み、、、、承諾してくれた。
リスクがあるのは百も承知。
それでも、母は食べる事(生きる事)を選んだ。

キムチは発酵食品なので出せないが、
おかゆと海苔の佃煮を用意してくれることになった。

お風呂は、熱が下がって容態が安定していれば
8月30日に入浴が可能となった。


食事をするときも入浴時も、
私が立ち会う事を申し出、病院側は快く承諾してくれた。


私は母にとってお守り的な存在。


顆粒球輸血も、人工透析も、気管切開も・・・
重要とされる処置はすべて母の傍にいた。
(処置室には入らず、待合にて待機してました)


だから、入浴も食事もうまく行くと信じて
傍にいてあげたい。


入浴し、容体が安定していれば『念願の食事』ができる。
母は一番の笑顔を見せてくれた!


目がキラキラと輝き、決意新たに表情が変わった。
病人らしくない、いつもの母の表情になった。


8月ももうすぐ終わり。
9月にはいれば・・・・
母は61歳の誕生日を迎えることが出来る!!



page31へつづく。









yjimage[2]

『肺がかたまる』
『肺の繊維化』
『呼吸困難』
『乾いた咳』
『人工呼吸器』
『痰』



などなどを入力し、検索した結果・・・
ひとつのキーワードに着目した。


『間質性肺炎』


肺の間質組織に炎症を来す疾患の総称で、
非常に致命的であると同時に治療も困難な難病のこと。

間質性肺炎は、繊維化によって線維状の肺の組織が壊れてかたくなってしまう。

間質性肺炎にはいくつかのタイプがあるのだが、
進行して炎症を起こした細胞が線維化し、
肺胞の外側が厚く硬くなって呼吸が困難になった状態は肺線維症と呼ばれる。
(サイトより一部抜粋)






詳しい内容は割愛させていただくが
サイトを読むと母の症状と非常によく似ている。

間質性肺炎、肺線維症・・・でさらに調べてみる。

どのサイトにも、これと言った治療法が書かれていない・・・
投薬のみで、回復はあまり見込めず、状態を悪化させないために
治療を続けていく・・・というのがほとんどである。

私は、どこかに埋もれてるであろう情報を探し続けた。

・・・・すると。
ウェブページの下部のほうに、なにやら広告を発見。

何の気なしにクリック。

医者に見放された間質性肺炎患者向けの、
効果のあるサプリメントのサイトへ移動した。

私『サプリか・・・呑み込めない母にとって意味がないな・・・』

あまり期待することもなく、目で文字を追っていく。
しかし、そのサプリを飲んだ人からの
驚きのメッセージの内容にいつしか夢中になって読んでいた。

私が読んだ記事は、

『健康を支える糖鎖』
http://blog.goo.ne.jp/tousa-eiyouso

というサイト。





初見は・・・はっきり言って怪しいなと感じた(笑)
でも、、、
現代の医学で治せなくても、
このサプリで治るなら・・・・!!
と、そう思わずにはいられなかった。
旦那には反対された。
騙されるとか詐欺とか、そんなものはどうでもいい。
何か私にできることは・・・そんな思いでいっぱいだった。

母には時間がない。
手を打つなら早いほうがいい。
父にこのブログを見せて、
主治医と病棟医にも印刷した文献を読んでもらい、
薬とともに糖鎖を投与できるか相談してみた。

答えは、『YES』だった!

糖鎖サプリの主成分などを書いた文献を細かくチェックしてもらい
看護師に投与するよう指示します、とのことだった。
クチからの摂取は難しいが、鼻に経管をしているので、
サプリが水に溶けるなら可能だと言ってくれた!

 取り寄せるために、ブログ管理人に連絡してみた。

母の状態をなるべく細かく説明し、
主治医に了解をもらえたことも伝え、
経管による摂取で試みる、と伝えた。


管理人は速やかに商品を出荷してくれた。
本来なら入金確認後の出荷になるのだろうが、
お急ぎでしょうからという事で気持ちを汲んでいただき
後日の入金で構わないと言ってくれた。


商品が無事に到着。
糖鎖は8月25日(金)に届き、
早速仕事がひと段落したあと、主治医に持っていくことにした。

了解をもらえたので、担当看護師に溶かし方を簡単に説明。
1日40g摂取が理想だが、水の量が少ないとペースト状態になるため
量はひとつまみ程度にしてもらい、水で溶かして
サラサラの状態で投与してもらうよう頼んだ。

初めて体内に入れるので、
容体が急変することはない・・・とも言い切れない。
看護師さんの負担が増えてはいけない・・・と思い直し、
スタッフが多い時間帯のみの投与でも構いません、と伝えた。

看護師からの返事は、
『土日はさむので、来週月曜のお昼にお薬と一緒に投与しますね』
とのこと。

私は、これに承諾した。


どうか・・・どうか。
母の体内にあるワルイモノが、
出て行ってくれますように。


その夜。
天国へ行ったおじいちゃんやご先祖様、
しいまに手を合わせ、必死でお祈りをした。


おかーさんを助けてください。。。




page30へつづく。








私たちが出した結論は・・・・




『1日でも長く、生きてほしい』
yjimage[5]

経管栄養を止め、
点滴による栄養補給をお願いした。


緩和的処置も視野に入れてもらうよう言われたが、
治療を止めてしまえば、、、
生きることを諦めてくださいと言われているようで心苦しかった。


『最後まで諦めたくありません』


治療を続けていけば、痛みや苦しみを伴うのは良くわかっている。
母に対して、とても複雑な気持ちである。
それでも、きっぱりと、先生に言い切った。
なにより、母はまだ、諦めていない。
母が諦めたのであれば、私たちはそれに従う気持ちだったから。

なので、医療的には終末期なのかもしれないが
転院することによって心機一転、
気持新たにリハビリを頑張り、
肺の機能が奇跡的に回復し、
MDS(骨髄異形成症候群)の進行が致命的でなければ
母はまた、生きるための活力を得ることができる。

人とは違う何かをもっているのだし、
自分の事は後回しにして、
誰かのために優しくなれる人。

致死率が高いと言われていたマルトフィリア肺炎を
一度は跳ね返すほど、母の生命力は強い!

奇跡が起こると信じたい。
諦めたくない。
まだ離れたくない・・・・


それでも、いずれは『その時』がやってくる。


母が苦しみに耐えられなくなったときは・・・・
その時は、『モルヒネ』の投与をお願いした。


肺の繊維化さえ、なんとかなれば・・・
現代の医学では、肺の繊維化を完治させる方法はない。
私は、あらゆる情報を求めてネットを検索した。



page29へつづく。







私『はい・・・はい。では、明日4時に伺います』



電話を切り、運転していた旦那が心配そうに見ていた。


旦那『・・・なんだった?』
私『・・・・・うん』


言葉に詰まった。
なんて言っていいのかわからない。
頭が割れるように痛い。
視界がゆがむ。


私『・・・あした、4時に父と弟の3人で話し聞きに行ってくる』
旦那『わかった』
私『血液検査の結果が出て・・・内容は、とても厳しいみたい』
旦那『・・・そうか・・・』
私『・・・・・』


帰ったら父と弟に何て言おう。
このあいだ面談したばかりなのに。
転院して、リハビリを頑張ろう。
治療は、体力が回復し人工呼吸器が離脱できたら
再開しよう・・・という話で終わっていた。


しかし・・・


この話には続きがあったのだ。


ICU入院時、父と弟のメンタル的な部分を考慮し
病院側に内容の厳しい話は控えてもらうよう頼んでいた。


なので、父と弟が相席していた面談時は、
主治医の配慮であえて話さなかったのだと言う。


何をどう伝えても、最悪の事態を連想させるような
言い回しになってしまいそうだった。


私の被害妄想だったらそれが一番良い。
ひとまず、主治医から話があるので4時から
時間を空けてほしいと短絡的に伝えた。


父も弟も、うすうす察しているようだった。


8月23日の面談日。


仕事がひと段落したので午後に会社を抜けて、
早く会いたくて、母のもとへ急いだ。


この日、母は拍子抜けするくらい元気だった。
普段通りのリハビリメニューをこなし、
LINEには『今日もリハビリ元気に頑張っています!やった』
みんなに報告をしていたほど。


熱が下がって、調子が戻ったようだった。
赤かった顔も、ふつうの顔色に戻っていた。


ただ、汗をものすごくかいていた。
尋常じゃない汗の量。
タオルでこまめに拭いてあげると、気持ちよさそうに目を閉じていた。
解熱剤が効いているのだろう、体が熱を逃がすため
汗をかき、体温を下げている。


黄色いタオルを頭に巻いてあげると
黄色のキノコのよう?な風合いになった。
ものすごく似合いすぎていて・・・
思わず吹き出してしまった。


おかーさんもつられて笑う。
鏡を見せて、と言われ渡したら


母『・・・・・!?』


目を見開き、いやだいやだと言わんばかりに
笑いながら首を左右に振る。


人工呼吸器が外れて酸素が漏れ、アラームが鳴り響いた。


私『もう、暴れるからー(笑)看護師さん飛んでくるやろ!』


おどけた態度の母が面白おかしくて、私は人工呼吸器を装着させた。
母は悪びれた様子もなく、ニコニコしている。
案の定、看護師さんがすっ飛んできた。


私『すみません、母がふざけてとれちゃいました^^;』
看護師『いえいえ。お元気になられたようで良かったです♪』
私『お忙しいのにすみませんでした(>_<)』


看護師さんが、こそっと耳打ちをしてきた。


看護師『今日の4時の面談ですが・・・』
私『・・・はい。聞いております。父たちは4時にきます』
看護師『わかりました。時間になったら呼びに来ますね』
私『お願いします』


4時からだった面談は、主治医の到着遅れにより
30分後に開始となった。


内容は・・・
私の被害妄想が的中する内容だった。


血球が徐々に下がってきていて、
マルトフィリアの脅威が、また顔を出し始めたらしい。
肺の線維化は悪くなる一方で、
容態はゆっくりと下降中。


転院の話が出ていたが、容態次第では難しいと言われてしまった。


食事は経管栄養を続けるか、
点滴のみで栄養補給をするか選択を迫られた。


経管栄養を続けるとなれば、この間のように高熱が出て
寿命を縮まらせてしまうかもしれない。



点滴による栄養摂取だと、今後移植を考えるのであれば
リハビリによる体力向上は望めず、非常に難しいのだそう。


いずれにせよ、どちらも延命治療の一環でしかない。


私たちが出した結論は・・・・
yjimageOAG1EOD6





page28につづく。









yjimage[5]
※上の画像はネットから引用しています※



8月21日。


母が高熱を出した。


40度近い高熱だった。


顔はまっかっか。


汗が噴き出している。


まるで・・・


5月5日にタイムスリップしたかのよう。


すぐさま採血をし、検査をする。


原因はおそらく、誤嚥(ごえん)による肺炎だろうという見解。


10日間以上絶食ののち、


肝臓のCRP値が下がってきていたので


白湯の投入を二日前から始めたのだ。


調子が良かったので、流動食をゆっくりと


鼻から管を通して注入。


その直後容態が急変。


嘔吐をしたらしい。


食事を中断せざるを得ず、解熱剤を投与。


一晩しっかり眠れたようで・・・


8月22日、翌日。


熱は37度台まで下がっていた。


ひとまず、安心。。。


それでも、母の手を握るととても熱かった。


母は『大丈夫』と言う。


・・・口癖になっている。


疑う訳にもいかないので、『良かったね』って


いつも通り返事をする。


普段通り、普段通り。


熱なんて、いっときの事。


おかーさんは良くなっていってるんだから。


リハビリ頑張ってるし、タブレットでパチンコやってるし。


LINEだって時間かかるけど最後まで諦めず入力している。


看護師さんや先生が来たら、


『ありがとう』と笑顔で手を振っている。


ハイタッチだってする。


そうそう、このままこのまま。


ゆっくり回復に向けて歩いていこう。







8月22日の夜、病院の帰り道。


私の携帯が鳴った。


病院の先生からだった。


・・・・もうやめて。


嫌な予感しかしない。



page27へつづく。







今回は高額医療養費制度のお話。
※実話を元に書いてます※



以前にも書いたのですが
なぜ、また・・・と思われている方、
少なからずいらっしゃるような気がします(笑)


高額医療養費制度について書こうと思ったのは、
5月分の請求書が家に届いたのがキッカケでした。


ん?
5月分!!?

おかしいですよね、8月ももうすぐ終わろうかというのに
今更5月分の請求がくるんですか?
って話ですよね。

実は、私たちが今まで入院費を払ってるのは
4月分・6月分・7月分のみしか支払っていません。
5月分に関しては、特殊な理由があるのです。

順を追って話していきましょう・・・

母は4月18日から現在に至るまで、
一度たりとも退院することなく、
約4か月間入院生活を送っています。

母は5月5日にマルトフィリアによる肺炎にを患ってしまい、
5月31日までICUで集中治療を受けておりました。

その間の治療内容、母の容体を簡単にまとめると・・・
☆喉の奥へ人工呼吸器の管を挿管
☆両方の肺が真っ白。水が溜まっていた。
☆血縁者による顆粒球輸血治療(臨床)
☆血圧が低い状態だったのでノルアドレナリンなどの蘇生薬投与
☆抗生物質、赤血球・血小板輸血投与
肝臓のビリルビン数値が高く、黄疸が出始める。
☆肺血症の症状が出る。
尿毒素が蔓延し、24時間人工透析を回す。
☆体がはち切れそうなほどまでにむくむ。
☆皮膚のただれがひどい。
☆人工呼吸器を喉の奥へ挿管していたのを気管切開へ切り替える。
☆鼻に管を入れ、経管栄養(流動食)が始まる。





この時は、さんざんICU担当医に脅され、
心身ともに休まる日々ではありませんでした。
父ともケンカするし^^;


明日はどうなるかわからない状況が続いた5月でしたし
人工透析、気管切開、顆粒球輸血(臨床)など特殊な処置をしたので
医療事務的に計算がややこしかったそうです。

あ、ちなみに顆粒球輸血は臨床として協力したので
請求はありませんでした!

高額医療制度を申請していなければ・・・
ざっくりいうと3割負担で
数百万は
超えてましt・・
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5月分だけで、ですよ?
総額じゃないんです。
もうびっくりですよ、まじで・・・・
いくら金持ちな私でもすぐに出せない金額ですよ⇐


それがそれが・・・


5月分の請求金額は
16万円程度!!!!


はぁ??????


け、計算間違ってません??( ゚Д゚)


医療事務『高額医療適応中なので、この金額です』


mjk--!!!
高額医療万歳!!


病気や怪我をして入院を余儀なくされた場合は、
主治医に高額医療制度が適応できるかどうか
相談してみるのもよいかもしれません。


ほんとに、ほんとに経済的にかなり助かりました!!
知っておいて損はないです。
いやもうほんとに。


ただ、受けられる条件があるようなので
必ずしも誰もがこの制度を受けれる、というのではないようです。。


気になる方。。。
ぜひサイトでggってみてください❤⇐


page26へつづく。








 


yjimage[3]
人工呼吸器が外れて、父と熱心に仕事の話をする母の夢。
病気になる前に、母と食べに行ったお寿司屋さんの夢。
母がもっと若く、私が幼い子供だった頃、一緒に遊んだ夢。
私の※子供(孫)の面倒を嬉しそうに見てくれた母の夢。


※現実では子供に恵まれていません※


夢に出てくる母は、いつも幸せそうに笑っていて・・・
私は・・・母の横でいつも泣いている。
私が泣いているのを見て、少し困ったように笑う。
母は、頭を撫でながら『大丈夫』って口癖のように言う。
それを聞いて安心する自分。


夢から覚めたら現実に戻る。
そして、無性に母に会いたくなる。
会社へ行かずに、病院へ行きたくなる毎日。



私って、めっちゃマザコンやな(笑)
明日も良い1日でありますように。




page25へつづく。















先日、ネット通販で購入したものが届きました。
早速病室へ持って行く事に!
それがこちら!
DSC_0533
『タブレットスタンド』購入~❤


本当は起き上がって操作できれば一番良いのだけど
すぐに苦しくなるし、ふいに呼吸器が外れたりすることもあるので
背もたれを起こすにはリハビリ扱いとなってしまうため
どうしても医師か看護師が同伴しなくてはならない。


退屈だし寝てばっかりの母なので、
なんとか日中起きていて欲しくて。。。
良いもの見つけました~~~ヾ(≧▽≦)ノ


これで、寝ながらでも操作可能となりました!
奄美グループチャットのLINE画面に設定し、
指でスクロール☆読むことに成功!!


なにやら入力まで始めました(笑)
DSC_0536
左手で右手首を支えながら、頑張って入力しています。
が・・・・
うまく入力することが出来ず、しばらくして諦めてしまいました( ;∀;)



でも母の目はイキイキ(*´ε`*)♪



LINEを中断。
次は『パチンコ!』と私に言いました(笑)



お盆休み中の会話では、
『今日から盆休みやで。もし入院じゃなかったらどこ行きたかった?』
と聞くと、母は少し考えてから
『・・・パチンコ!』
と張り切って答えてました(笑)


さすがに人工呼吸器付けてパチンコホールへ行けないので(笑)
せめてタブレットへパチアプリをインストール⊂⌒~⊃。Д。)⊃w


私『おかーさん、パチンコの何打ちたいの?』
母『・・・・うみ!海物語!』



と言う事で、病院内のwi-fiエリアへ移動←
海物語の沖縄ver?をインストールしてきました('◇')ゞ



早速遊ばせてみました。
すると・・・


タブレット『~~♪~~♪♪~~~LUCKY!』
母『大当たりーーーー』




タブレットを手でたたき、めちゃくちゃ大喜びヾ(≧▽≦)ノ
15ラウンド消化して、単発で終わった模様(笑)
パチ画面を眺めている母の目は立派なギャンブラーでした(笑)
yjimage[6]
いやいや、
所詮グリパチだからwwwww



およそ30分ほど遊んだ沖縄海物語。
収支は・・・


マイナス10000パチドルッッ!!
※新規登録で貰えたパチドルすべて※


母にマイナス収支の事を伝えました。
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などと言ってませんが、とても残念そうな表情でした^^;


グリパチはログインボーナスを貰えたり
ガチャを回せば無料でパチドルやアイテムが貰えるらしいので、
毎日ログインするようにと伝えました(笑)


母はよくわからないまま『うんうん』と頷いていました。


ひとまずこれで、日中の眠気予防??に
ブレーキをかけれたように思えます。


見過ぎてしまうと目が疲れるし肩も凝るので、
ほどほどにしないといけませんがね(´・ω・`)


明日は月曜日。
お互いにとって忙しい1週間が始まります。




page24へつづく。















毎日欠かさず行ってた母のお見舞い。

今日は、体調が優れず引きこもっており、
家から一歩も出ることはありませんでした。
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ほんとに、何もしない1日でした(笑)
こんなの久しぶり。

まぁ、しいて言えば部屋の掃除機をかけて、
洗濯物を干したぐらいかな。
あ、パソコンも触ったわ(笑)

薬を飲んで、
食事はおかゆ1食、少しお茶を飲み、たまにスマホを見たり。

今日は会いに行けずごめんよ、おかーさん。
リハビリ頑張ったかな?
熱は上がってないかな。
昨日よりは少しでも体調良くなってればいいんだけど。

明日は会いに行きますね。






母のおおまかなタイムスケジュールを書きます。


【午前中】
6:00~8:00    
起床 or  寝
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8:00~12:00   
経鼻栄養補給、点滴交換
外来医訪問(歯科&皮膚科&消化器)
主治医による診察・経過観察
採血・採尿検査、レントゲン
洗髪、全身を拭いてもらう


【午後】
12:00~13:00  
寝てるかボーっとしてる。
経鼻栄養補給は無し。
点滴交換。

13:00~14:00  
作業療法士訪問リハビリ(タブレット操作)

14:00~17:00  
人工呼吸器管交換及び本体の点検
仕事を抜けた娘が面会に来る。(多忙日は来ない)
眠いのに娘に起こされつづけ、
しぶしぶトランプやアルバムを見るなどして遊ぶ。
具合の悪い日は遊ばない。
娘にホットタオルを用意させ、顔を拭いてもらう。
娘の手を握りながら、いろんな話をする。聞く。

17:00~18:00  
理学療法士が訪問リハビリ(ベッドサイドでの立ち座り)
主に足メインのストレッチ。

18:00~19:00  
父・息子が面会。娘と面会交代。
足をさすったり、マッサージをしている。
色々な話をする。
経鼻栄養補給。
主治医経過観察。
19:00で面会時間終了。
   

19:00~21:00  
多分寝てるかボーっとしてる。
21時就寝時間。でも眠れずに起きてる(と思う)


21:00~翌朝   
尿意があり、1時間に1度のペースでナースコールを押す。
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眠れない夜は用がないのにナースコールを押し、
看護師さんを少々困らせている模様。
睡眠薬を入れられ、寝かしつけられてしまう。







平日はほぼこんな感じで過ごしていると思います。
面会していない時間帯の過ごし方は、
看護師さん数名に情報提供していただきました(´・ω・`)


土日は外来診察が無く、特にこれといった検査もないので
特に暇な時間が増えるようです。。。


まぁ、その分家族が面会に赴き、
話し相手になったり、寝ないように監視しています(´Д⊂


昼夜逆転だと、日中のリハビリに影響が出てしまいます・・・
あまりの眠さに、リハビリに消極的になることもしばしばありました。

恐らく、睡眠薬がまだ体に残っているせいだと看護師さんは言います。

でも、夜起きていると看護師の人数が少ない時間帯なので
用があってナースコールを使用するならいいのですが、
特に用が無いのに呼んでしまっては、
看護師さんの負担が増えてしまいます。


せめて夜、もう少し長い時間居てあげたいのですが・・・
週末ぐらいしか協力できそうもありません。


せめて母が自分で歩けるようになれれば、
昼夜逆転も少しはマシになる、と思います・・・
                      

悪循環なこのジレンマループから、
なるべく早く脱出したいものです(>_<)
            


page23へつづく。










 こんばんわ。
昨日の記事ではお騒がせしました(;´Д`A ```


昨日、夜寝る前にストレッチ&セルフツボマッサージの甲斐あって
ただの一度として夜中に起きることもなく、
朝の6時までぐっすりと快眠できました!


眠れるってすばらしーーーですね\(^o^)/!!
なので、昨日よりは気分が少し上向きになれました。


夏バテingなので、体調はあんまりなんですがね(笑)


さて、昨日の私のように
気分が落ち込んでしまっていて、何もする気になれないアナタ!


・・・もちろんそうじゃないアナタにもオススメな曲があるんです!


この曲、ご存知ですか?
SEAMOの『Continue』っていう曲を聴いてもらいたくて
貼り付けてみました。
 
歌詞がめちゃくちゃ良いんです。
特にサビ。


もうね、車の中で聴きほれてました。。。


『負けたらおわりじゃなくて やめたら終わりなんだよね』
『どんな夢でも叶える魔法 それは続ける事』




この言葉にどんだけ元気づけられたか。
素晴らしい曲に出会えたことに感謝です。



今日もお付き合いありがとうございました┏○))ペコ
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考えたいこと。


明るい将来の妄想。
母の容態が回復して、
退院したら、何しようかな。
母の好きなウナギを食べさせたい。
巻きずしもいいな。

パチンコ好きだし、行かせてあげたいな。
あ、でも空気悪いし止めといたほうが良いかな。

奄美大島だったら空気がきれいだし
生まれ育った故郷だから
連れてってあげたい。
歌も踊りも大好き。
幼馴染や同級生たちに会わせてやりたい。

温泉もいいな。
花火も見に行きたい。
もう終わったけど、地元で祭りがあった。
おととしは一緒に地元祭りに出展したなー。
フリマも出たし。
楽しんで接客してた姿が懐かしい。


前のような生活に戻りたい。
それが一番の望み。



考えたくないこと。



考えたくないことは、、、、
望みが叶えられなくなる事。


母と離れ離れになってしまう事。
考えるのをやめたい。
頭に電源があるなら、『OFF』にしたい。


昨日、思考回路が止まらなくて眠れなくて・・・
朝なんてもう気分サイアク。


雨は夜中のうちに降ったみたいだった。良かった。


時間が止まったらいいのに。
少しくらい、待っててくれてもいいのに。
時間は誰にでも平等で、時を刻み続けてる。



今夜は眠りのツボをギュウウウウっと押して
念入りにストレッチをして、
スマホやパソコンをいつまでも眺めずに、早く寝てしまおう。



また明日が始まるから。










※お詫びと訂正※
前記事で書かせていただきました、
『母が人工呼吸器が離脱できない理由』の答えですが、
私の見当違いな部分がありましたので訂正しております。
訂正した文面は、本日医師との面談で確認したことです。
誤解を招くような書き込みをしてしまい、申し訳ございませんでした。




今日は、父、弟、私、私の夫の4名で午後から家族面談をしてきました。
結論から言うと『転院』の話でした。
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母の大まかな状態は前記事の通りですが
具合が悪くなったから転院してください、とか
もう手の施しようがありません、ということではないようでした。


1か月に1度のペースで血液の精密検査をしており、
WT-1(がん遺伝子)の数値は、
入院当初(4月18日)は14000程度あったのが、
抗がん剤治療(キロサイド・ダウノルビシン)を投与した結果
6月、7月には50程度まで減少していました。


WT-1は誰もが持っている遺伝子ですが
健康状態な人ならば50未満なのだそうです。


このWT-1が14000あった母は、すぐにでも治療を始めないと
急性骨髄性白血病に移行してしまうと言われていました。


二つの強力な抗がん剤によって、
母の骨髄を破壊し、リセットすることに成功。
集中治療室中に母の骨髄は見事に生成、
ひとまず元来の病気である
MDS(骨髄異形成症候群)は、治まっていたように思えました。



そして、8月の検査結果をみると・・・・
4400という数値を割り出しており、
WT-1の数値が増えてきたのです。


それに伴い、白血球もゆるやかに減少。
死滅したと思われていたマルトフィリアが
腎臓や胆のうに少量ではあるものの反応が出たというのです。



抗がん剤治療をしようにも、
母は体力が無く呼吸器をつけていなければ
満足に酸素供給が出来ない状態であるため、
抗がん剤治療を受けることが出来ません。


病院側の意見としては、血液内科の治療よりも
リハビリによる体力向上を最優先で考え、
人工呼吸器を離脱し、歩けるくらいにまで回復してもらわなければ
血液疾患の治療が出来ない、という結論でした。



母が入院しているW大学病院は
リハビリテーション科は特に優秀らしく、
噂を聞いて他府県から受診したいとやってくる患者さんが多いのだそう。
そのくらい、他の病院には負けず劣らずの
優秀な医療スタッフ(作業・理学)が揃っています。



しかし、そこは大学病院のシステム・・・とも言うべきか
リハビリよりも治療に特化した病院であるため、
徹底的に望むようなリハビリができる環境ではない、と言われました。



平日と土曜日は作業療法と理学療法をやっていただいてます。
リハビリ時間は最長で1時間、
短ければ30分程度で終わってしまいます。
これは、母の容態が思わしくなければすぐ終わってしまう事もあり、
また医療処置とかぶってしまうがために
メニューが途中であっても、中断せざるを得ないのだそうです。



さらに、日祝日はお休みとなるので、
リハビリを休んでしまうと体はリセットになってしまいます。



WT-1が上昇、白血球が減少し始めているとわかった今、
モタモタしているわけには行かなくなってきたので、
リハビリを集中してできる病院へ転院し、
体力が回復したらW大学病院へ戻り治療を始めましょう、

という打診でした。



これもすぐに、と言う事ではないようです。
母は今肝臓の数値が上昇していたため、
10日間以上絶食状態にありました。
※点滴にて栄養補給をしているので餓死はありません※



消化器内科の医師と相談し、母が食事を再開することが出来て
容態が落ち着き次第・・・・早ければ9月頃に転院になるかも、という予定です。



・・・・ふう。
ダラダラと書きなぐったのでわかりにくい!
という読者様のために簡単にまとめてみます。



まとめ!!
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明るい未来を手に入れるために、
強いては母の血液治療を行うため、
リハビリに特化した病院へ転院を勧められた!

と言う事を言いたかったのです( ;∀;)



要するに、
次の治療段階に上がりましたよ
というお達しでした(笑)


捉え方によっては、
転院させたいがための言い訳・・・と思う人もいるかもしれません。
大学病院などの大きな病院では、平均的に3か月以上の入院は
させてくれないところが殆どだそうです。(父談)
まぁ、モノは良いように捉えておきましょう・・・うん。


ぶっちゃけ、話を聞く前は最悪の想定をしていたので・・・・
昨日は思い込みすぎて涙が止まらず、
母のせん妄症に打ちのめされてココロがズタボロになっていました。



まだ・・・・『まだっ!!』希望はあるんだと言い聞かせ、
落ち込むことが日々増えてきていますが
それと同じくらい気持ちが浮上することもあると信じ、
とりあえずこの暑い夏を乗り越えて頑張ろうと思います。



支えてくださっている読者の皆様。
お知り合いの各々方。
日々治療に専念していただいてる医療チームの皆さま。



本当に、いつもありがとうございます。



page22へつづく。







こんばんわ。

お盆休暇も残すところあとわずかですね。
今頃帰省ラッシュで高速・一般道路は
大混雑と言ったところでしょうか。

メソメソんとこは明日まで休みですが、
お盆最終日と言う事で、念のため会社に出勤し、
発注状況などを把握するために
休日出勤となりました。

長期休暇になるとどうもグデグデになっちゃいますねー・・・
image[1]

さてさてさーて。
ぐでぐで文句はこの辺にしておいて!


前記事の答え合わせに参るとしますか( ゚Д゚)!


Q.自発呼吸80%できているにも拘わらず、
何故人工呼吸器の離脱が難しいのか??



A.肺は風船のようなものであり、一度しぼんでしまうと
膨らみが困難になるので、常に圧力をかけ
膨らませ続けなくてはならないため。(※訂正済※)



という事でしたっ!!
人工呼吸器を少しの時間なら外しても大丈夫ですが
数分もしないうちに肺がしぼんできてしまうので
呼吸困難に陥るのだそうです。※追記※


80%自発呼吸出来ていてもそれは人工呼吸器のサポートがあってこそ。
人工呼吸器がなければ、肺活量が低い母は肺を膨らましきれず、
たちまち酸欠状態に陥いってしまうのです。※追記※




寝ているだけなら問題なく呼吸が出来ているのです。

この記述は間違いです。申し訳ありません!





なぜ、こんなに悪化してしまったのか?
理由は。
5月5日に発症してしまった肺炎が元凶です。


肺炎ウイルス(マルトフィリア)を完治させるために
顆粒球輸血(かりゅうきゅうゆけつ)を施し
多臓器不全のリスクにも目を瞑りつつ
ありとあらゆる投薬をされ、
人工透析や肝機能障害が起こり、
ついには気管切開をせざるを得なくなりました。


約1か月、集中治療室で徹底看護管理のもと、
母はなんとか一命をとりとめ、5月31日には
無事に無菌病棟へ戻ることが出来ました。


しかし・・・肺のダメージがかなり深刻な状態で、
人工呼吸器の離脱は長い目で・・・というお話があったほど。


母の肺細胞が炎症により固まってしまい、
ポンプの役割を果たすことが出来なくなってしまったのだ。


リハビリをすることで運動量を増やし、
酸素量を増やせば肺の活動が活発になり、
固まった肺細胞が復元するのではないか・・・という期待を込め
少しずつ少しずつ、リハビリを頑張り続ける母。


これからも、人工呼吸器がいつか離脱できるまで、
ステップアップしながら頑張るしかない。


リハビリの甲斐あって、タブレットを打てるようになりました。
ちゃんとメガネをかけています。
DSC_0516
指が震えるため、誤タップが多く、
文字を打つのに相当時間がかかっていました。
DSC_0517
諦めることなく、サポートをしてもらいながら最後まで入力しています。
声を出せない分、文字にして自分の気持ちを綴っていました。
奄美グループのLINEチャットをしています。
DSC_0523
送信アイコンを押し、やっと一息♪
作業療法が終わった後、テレビを観ながらまったりモード❤
DSC_0512
本人は、テレビを観ている画像のベッドの角度が一番ラクなようです。
タブレットを操作するときはベッドの角度を鋭角にしないといけないので、
とても辛そうにしています・・・。
腰が痛むのと、人工呼吸器が重力により引っ張られてしまい、
付着部分が痛いのだそうです。


・・・・でも。
痛いから、辛いからと言ってリハビリを止める訳には行きません。
止めてしまうと、せっかく今までやってきた努力が水の泡になってしまうからです。
体の衰えは、あっという間なんです。


見ているのが辛い事、正直沢山あります。
でも、目を背けずに母の努力をちゃんと見守るようにしています。



腕も足も、やせ細ってしまいました。
体重は、40キロもありません。


しかし、今までどんな困難にも逆転勝ちしてきた母なので、
数年先どこまで奇跡的に回復するのか、とても楽しみです。


明日は、母の事で今後の話がしたいと
家族全員が呼ばれました。


内容については、、、なんとなく皆目ついています。


たぶん、転院の話か、胃瘻処置の話か。
骨髄異形成症候群の治療方針か、ドナーの話か。
それとも・・・・・・


とりあえず午前中は会社へ出社した後
母の未来についてお話を聞いて来ようと思います。



page21へつづく。








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